手を離す
- 2013年02月18日(月) 文:kenyou
- 仏声人語
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先日、東海北陸地域の青年布教使研修会という研修会に参加してまいりました。その名の通り、若手の布教使(ご法話をつとめるお坊さん)の学びを深める場で、テーマは「聞く立場から考える布教の課題」というものでした。法話をする場面というのは、どうしてもお坊さんが聞き手に向かって一方的にお話をすることが多く、なかなか法話を聞いておられる人の想いや感じておられることを聞く機会がありません。そこで、聞く立場の方からのご意見をいただいて、自分たちの話しぶりや、自分自身の在り方が、自己中心的なものになっていないかもう一度再確認してみよう、そんな内容の研修会でした。
研修会を通して、自分の話しぶりやお話させていただく内容について、気をつけなければいけないなと思う点がいくつか見つかり、大変意義深い学びになりました。しかし、もうひとつ大きな気づきがありました。それは、自分自身がなかなか自分の過ちを認められない、認めたくない、という思いが強いということです。
自分の悪い点や、学ぶべき点にぶつかったとき、すぐに頭をよぎるのは「でも」とか「しかし」からはじまる自己弁護、言い訳の言葉です。自分が培ってきたものは仮にそこに否があっても、なかなか「そうか」とは頷けません。特に自分が「正しい」と信じてきたことに関しては、頑として間違っていないという思いを押し通したくなります。自分が掴んだものは手放せない。それが私の姿だったなと改めて感じました。
昨年末メリシャカライブ2013が行われました。アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文さんと釈徹宗、そして松本圭介を招いてのパネルディスカッションで「お布施」とはどういうものかという話題になり、釈先生は「手を離すトレーニング」であるとおっしゃいました。この言葉が、それ以来ずーっと頭の中をぐるぐる巡っているのですが、よくよく思えば、仏教自体が「我執(がしゅう)」という自分自身への「とらわれ」を離れる教えであります。自分自身への「とらわれ」というのは、「自分最高!」「自分無敵!」「自分は絶対に正しい!」というような、誤った考え方です。これは苦しみの根源となります。なぜなら、自分は最高でも無敵でも、常に正しい訳でもありません。その考え方ではどこかで必ず挫折し、衝突を生み、多くな苦しみとなります。ですから仏教は、そのような誤った「我執」から離れるための教えとなっています。
そしてお念仏の教えも、私が自らの力によって念仏を称えるのでもなく、また「信心」という心さえ自分で起こす心ではない、という「他力」の教えです。「他力」というと、他人任せとか、人の力を当てにするようなネガティブな意味に取られがちですが、そうではありません。むしろ、自分自身の不完全さに気づかされ、そして「私が私が!」というような強い自己主張を離れる教えであるのではないかと、私は思います。
「南無阿弥陀仏」とお念仏いただきながら、自分が強く強く握りしめているその力を、ほんの少しずつでも緩めることを意識していきたいものです。





