あちらを立てればこちらが立たず
- 2009年07月15日(水) 文:kenyou
- 仏声人語
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皆さんメリシャカ。ケンユウです。
毎日暑い日が続きますね。これだけ暑いと夏バテはもちろん、熱中症にも、お互い気をつけたいものです。
さて、最近の話題と言えば、もう解散総選挙で持ちきりでありますが、一つ、重要な法案が可決されました。それは臓器移植に関しての法案で、これまでよりも大きく踏み込んで、脳死=人の死という線引きがこれまでよりもはっきりとなされ、本人の意思がなくとも、家族の決定で臓器提供が可能となり、また、これまでは15歳以下の臓器提供あるいは移植というのは国内では認められておりませんでしたが、臓器の移植に関する法律の改正に伴い、子どもから子どもへの臓器移植も可能というようになったそうです。
おそらく、この臓器の移植に関する法律の改正については、まだまだ賛否のあるところであると思います。これまでは子どもの臓器移植は、海外でしかできず、莫大なお金が必要となったことや、WHOが、外国に渡航しての臓器移植をすることが、臓器売買などの助長にもつながりかねないことなどから、控えるようにという宣言を発表したこともあって、日本でも、より臓器移植を行いやすい環境を整えるべき、というところから今回の法律の見直しが行われたようで、臓器移植を待つ人、特に、移植が必要とされる15歳以下のお子さんを持つ方にとっては、待ちわびた法改正ではないかなと思います。
しかし、やはり脳死=人の死、という線引きが行われてしまうことについてはまだまだ考えていかねばならないことはあるでしょうし、脳死の状態となってしまった方を持つご家族の方からすれば、それはなかなか受け入れがたいことであると思います。
また、脳死=人の死という線引きが行われることによって、その方の治療や蘇生の可能性などよりも、臓器を提供するかどうか、ということが重視され、本人の意思のないままそれが決定されてしまうというのは、いのちの尊厳、ということに関しましても、問題があるように思えます。もし、助かる可能性の高いほうのいのちを優先するべき、という考えに基づいてこの法改正が行われているとするならば、いのちに優劣をつけるという意味で、非常に問題があるかと思います。
それもあって、各宗教団体もこれに反対する意見を出しており、浄土真宗本願寺派もこのような意見書を出しております。
ただやはり、臓器移植を必要としている立場に自分が立てば、法改正は必要であると感じるでしょうし、その置かれた立場によって当然意見も変わってくるでしょうから、この問題はまさにあちらを立てればこちらが立たず、非常に難しい問題であるかと思います。
臓器移植に限らず、あちらを立てればこちらが立たず、ということはいろんな場面で出てくるかと思います。そういう時に、仏教の中道という物の考え方が大変役に立つ、と思うのですが、中道というのは、両極端な選択肢に悩むのではなく、それを超えた道を選ぶ、という考え方ですが、彼岸寺の弓月さんがちょっと前に中道についての例えを書いておりまして、“メタボの人が目玉焼きを食べる時にソースとしょうゆ、どちらが体にいいかという悩みに対して、仏教ではその両論を超えた道、目玉焼きを食べない道を選択する”という例をあげておりました。なるほど、上手い例えだな、と思ったのですが、この場合ではどう考えれば良いのでしょうか。
臓器移植という技術は、病を持つ方にとっては、この上ない救いの道であります。
けれども、仮に臓器移植が成功して、病が改善したとしても、それで万事が解決するわけではありません。そこでいのちが助かっても、いずれ死んでいかねばならないのが人間であります。ですから、臓器移植うんぬんではなく、「いずれ死んでいかねばならない」という私たちのいのちが抱える根本的な問題と向き合い、それを解決する道を求めていく、というのが、仏教の中道的立場に立った考え方、と言えるかと思います。
ただ、そう考えるのはとても難しいもの。一時的ではあるかもしれないが、病の苦しみを和らげ、健康になっていろんなことができるようになりたいと思うのが人として当然の考え方でありましょう。
ですから、私たち自身も、臓器提供・臓器移植ということをしっかりと考えて、臓器提供の意思を、一人一人がきちんと明確にしていかねばならないのかもしれませんね。
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