ブッキョウは鏡

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仏教を学ぶと言うことは、ありのまま、そのままの自分を映す鏡を持つことと言われます。
中国の唐の時代にお生まれの善導大師というお坊様は「キョウキョウはこれをたとふるにキョウのごとし」とおっしゃいました。
読みで書くと言葉遊びみたいで意味が分かりませんが「経・教・鏡」となります。
つまり、ほとけ様、阿弥陀様のみ教えが書かれたお経は鏡のようなものであるということですね。

鏡は見たくなくても、毎日外に出る時は見なくてはなりません。絶対に必要ですよね。
でも、鏡は心の中まで映すことはないです。心の中まで映される鏡があったら皆さん見ますか?
僕はきっと見られないと思います。一瞬たりとも見られないと思うんですよね。発狂するかもしれません。

自分の心をそのままに映し出す鏡をいただく。それはありのままで本当に素の自分に出会うということでしょう。
そこに映し出されるのは、、、
「自分が一番可愛いよー!!」
という叫び声です。
自分中心の見方から離れられない浅ましい姿です。

自分が調子良ければ相手を見下し、自分が悪く相手が良ければ羨んでいく。
自分の利益のためならば、相手を蹴落としても構わないと言う醜きエゴイズム。
それが残念ながら本当の自分でしょう。
仏教を学ぶって、正直全部自分に返ってきます。おおごとです。


突然ですが僕は忘れ物をよくします。よくと言うかしょっちゅうします。
しかし、連れ合いの彼女は諦めたのか、最近あまり責めません。
先日ふと、なぜ怒らないのだろう?と思い聞いてみますと、

いつか連れ合いの彼女が実家に部屋の鍵を忘れた時、僕はこう言ったそうです。
「ほら、誰だって失敗はあるだろう。僕が忘れた時には責めてきたよね。
僕はキミの失敗を責めないだろう」
そう言われて、彼女は「あっそうか」と気付いたそうなのです。

僕、彼女を、めちゃめちゃ責めてるジャン!

びっくりしました。ふつうに責めてた。

仏教は自分と他人を区別しません。これを自他一如と言います。
阿弥陀様の鏡は、僕の姿のそのままを、自己中心的なこころねを映します。
しかし、その鏡は決して見捨てることなく、見限ることなく、光を照らし、願いで包んでくださっているのです。

「どうか、自分のいのちと他人のいのちを区別しない世界に気付いてください」と。

仏教を鏡として、そして共にあゆむ友や家族を鏡として、日々自らを省みていきたいです。

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