「世々生々の父母兄弟なり」
- 2010年02月02日(火) 文:るる
- 仏声人語
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つくづく、「親子」というものを思うこの頃。
親がなくとも子は育つ。
育てたように子は育つ。
親の心子知らず。
子の心親知らず。
蛙の子は蛙。
トンビが鷹を産む。
矛盾するようだが、事実としてある真理だ。
子にとって、一番身近なモデルは親である。
もちろん持って生まれた性質はあるだろうが、絶対に親のやることを真似して育つもの。
真似されたくないことに限って、覚えられるのはなぜだろう。
こんな子に育てた覚えはない、と言いたくなることもあるだろうが、いやいや。
やはりそこは、そう育てたのは自分なのだと自覚せねばなるまい。
知らず知らず、子は親の背中をじっと見て、感じ取るものなのだろう。
親がわが身中心に振舞っているその間、視線に気づかないだけなのだ。
うちの子がようやっと言葉が出始めたときに、口から出たのは「あぁもう!」だった。
私の口癖である。
これは・・・猛烈に反省した。
また、私が中途半端にしか閉めていなかったトイレのドアをいちいち閉める。
きちんと閉める性格の父親のほうが正しいと、誰に教わるわけでもないが知っているのだろう。
この場合、私が子どもに教えられている。
(ちなみに、このエピソードを嫁ぎ先で親戚一同に暴露され、大変恥ずかしい思いをした)
歎異抄第5章には、
親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。と書かれている。
「世々生々の父母兄弟なり」
この時代、この国、人間という生き物に生まれたのも、ものすごい偶然が重なったからであるが、
本当にたまたま、親子という関係になったのである。
そして、多くの場合、子はまた親となり、いのちは次の世代へと引き継がれていく。
血縁でなくても、同じことだ。
子は親の所有物ではなし、親も子の人生の犠牲ではない。
だからこそ、大人は子どもをきちんと育てる責任がある。
いわば、広大ないのちの世界からの預かり物だからだ。
私たちは、それを「ほとけの子」と言ったりする。
その預かり物である子らが、自分の生き様を見つめている。
じっと。
やはり・・・育たなければならないのは親自身だ。
しかしこうなると、すべてが親のせいか、と問われることもありそうだ。
最近は、犯罪を犯した人の親が、テレビに出て謝罪したりする。
もう、いい大人なのに、親がどう育てたかが問題視される。
ベースにあるのは、確かに親の関わり方だろうけど、でもあとは本人の問題。
だって、自分の人生は親のものじゃないし、自分だけのものでもない。
それに自分自身が気がつかない限り、本当の意味での自立はないのかもしれない。
どちらにしても、親子一緒に育つ、育てられる、という環境がとっても大事だよなぁ。
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