右と左と
- 2009年04月04日(土) 文:kenyou
- シャカ斬り
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最近、ニュースを見たりネットをチェックしていると、右寄りとか、左寄りとか、そういうことを意識させられる事が多いように思います。中国や韓国との関係性、今問題となっている北朝鮮のミサイル問題などでそれが顕著に表れていると思うのですが、面白いのは、マスコミの報道姿勢と、ネット上での反応が全く違う、ということ。
このへんのことは、みなさんそれぞれで見てもらえばわかるのですが、マスコミは左寄りで、ネットでの意見は右寄りになりがち、というのが、個人的なイメージです。
しかし、この両者を客観的に見ていきますと、どちらも、偏った意見、なんですよね。考え方によってはどちらの考え方も、間違っているわけではないんですが、一つの物事に対して全く見方や意見が違ってきていて、そこまで極端に考えなくても、と感じることが、多々あります。
それはさておくと致しまして、仏教は、右左、どちらの立場に立つのでしょうか。右左と言う両極端な立場にあえて分けるとするならば、仏教は、姿勢としては左寄りの考え方だと感じます。なぜなら、仏教はいのちの平等性を説く教えでもありますし、差別や戦争に反対の立場に立ちますから、そういう意味では、平等や非戦・平和を掲げる、左寄りの考え方に近いと言えるでしょう。
ですから逆に言えば右寄りな考え方とは対照的な立場にあるわけです。右寄りな考え方は、自分の立場を高めるために、他を見下し虐げていく、という方向に向かいがちで、差別を容認し、争いすらも辞さない、という道を選択することもあります。極端に右傾化すれば、自分たちの民族は、他の民族よりも優れている、と言うような、根拠の無い優劣をつけ、他の民族を迫害するというようなことが、歴史上の話だけではなく、現代においても見られます。
しかし、仏教は、右寄りな思想に反対の立場に立つからと言って、完全に左に偏った教えでもないように、私は思います。
もちろん、先ほど述べたように、差別や戦争と言うことに関しては、反対の立場に立ちますから、左寄りな姿勢であるということは否定しませんが、極端な左寄りの立場、すべてが均等に平等でなければならないというような考え方には、少々同意しかねる部分があるのです。
こんなことを言うと、いやいや、阿弥陀仏の四十八願には、「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」、阿弥陀仏の浄土に生まれる者は、皆等しく清らかで尊い存在となるということが誓われているではないか、仏教は、すべてのいのちが等しく平等である、と言うことを説く教えではないのか、と、思われる方もおられるかもしれません。
それは、ごもっともなこと。しかし、これは仏さまの国でのお話。いのちは皆等しく尊いものであると言えども、それぞれいろんな違いがあるのが、私たちの生きている世界です。もし仮に、極端な左寄りな考え方に基づいて、すべての人が、均質的に平等な状態になるとしましょう。まずは、物質的に平等になりますから、財産も食べ物も、みな分け隔てなく、同じだけもらえるようになります。
しかしどうでしょうか。物質的に同じになったとしても、人それぞれに、いろんな違いがあるもの。運動が得意な人もいれば、勉強が得意な人もいますし、運動も勉強も苦手だけど、絵を描くことや、音楽が得意だという人もいるでしょう。要領のいい人がいれば、マイペースにゆっくり物事を行う人もいる。外見も人それぞれ違いますし、話すのが得意な人もいれば、物静かな人もいます。そうなると、卑俗な例えですが、物質的に同じだけ持つことができても、モテるモテない、というような格差が出てきたりすることもあるわけです。それでは当然、不平等ですし、また均質的に平等になるということは、素晴らしいことのように思えますが、人それぞれ持つものを、大事にしない、ということにも繋がってくるでしょう。
みんなが一緒であるということは、誰でも一緒、と言うことと、そう違いはありません。顔の違い、性格の違い、経験・体験の違い、得手・不得手の違い、人それぞれが持つ違いがあるのに、それが無いもののように無視されていく。果たしてそれが、理想的な社会のあり方と言えるでしょうか。
そのような画一的な平等は、仏教の平等とは、異なるように思います。仏教は、いのちは等しく尊いものであると考えますが、だからこそ、人それぞれ持つものを大切にする教えではないかなと、私は思います。人それぞれ、いろんな違いがあって、同じ人は一人としていない。だからこそ、いのちは尊く、光り輝くのではないでしょうか。
そういう風に考えますから、平等と言うことについて、違いを均(なら)し、みんな同じようにしていって平等だ、とするのではなく、みんな生まれも生活環境もそれぞれ違う。違うのが当たり前なのだから、その違いを、お互いに認め合い、お互い尊いいのちだと敬い合っていけることこそが、真の平等である、と考えるのだと思います。
と、ずいぶん話がそれてしまった気もしますが、こういう風に見ていくと、仏教の立場は、一般的な左寄りの立場とも、一線を画すように思います。極端に左寄りになるあまり、過激な意見や行動を示すのも、逆に反発を生むだけですし、主義主張が違うだけで、「自分たちの考えが全て!絶対的に正しい!」となってしまえば、極端に右に傾くことと、そう変わりはないようにも、思えますからね。
そのような両極端な立場ではなく、右でも左でもなく、その両方を超えた、別の視点から物事を考えていくことが大切であり、偏った両極端な立場に立つことの危うさ、極端によらない道を歩むことを勧めてくれるのが、仏教の教えの一つであるのです。
このへんのことは、みなさんそれぞれで見てもらえばわかるのですが、マスコミは左寄りで、ネットでの意見は右寄りになりがち、というのが、個人的なイメージです。
しかし、この両者を客観的に見ていきますと、どちらも、偏った意見、なんですよね。考え方によってはどちらの考え方も、間違っているわけではないんですが、一つの物事に対して全く見方や意見が違ってきていて、そこまで極端に考えなくても、と感じることが、多々あります。
それはさておくと致しまして、仏教は、右左、どちらの立場に立つのでしょうか。右左と言う両極端な立場にあえて分けるとするならば、仏教は、姿勢としては左寄りの考え方だと感じます。なぜなら、仏教はいのちの平等性を説く教えでもありますし、差別や戦争に反対の立場に立ちますから、そういう意味では、平等や非戦・平和を掲げる、左寄りの考え方に近いと言えるでしょう。
ですから逆に言えば右寄りな考え方とは対照的な立場にあるわけです。右寄りな考え方は、自分の立場を高めるために、他を見下し虐げていく、という方向に向かいがちで、差別を容認し、争いすらも辞さない、という道を選択することもあります。極端に右傾化すれば、自分たちの民族は、他の民族よりも優れている、と言うような、根拠の無い優劣をつけ、他の民族を迫害するというようなことが、歴史上の話だけではなく、現代においても見られます。
しかし、仏教は、右寄りな思想に反対の立場に立つからと言って、完全に左に偏った教えでもないように、私は思います。
もちろん、先ほど述べたように、差別や戦争と言うことに関しては、反対の立場に立ちますから、左寄りな姿勢であるということは否定しませんが、極端な左寄りの立場、すべてが均等に平等でなければならないというような考え方には、少々同意しかねる部分があるのです。
こんなことを言うと、いやいや、阿弥陀仏の四十八願には、「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」、阿弥陀仏の浄土に生まれる者は、皆等しく清らかで尊い存在となるということが誓われているではないか、仏教は、すべてのいのちが等しく平等である、と言うことを説く教えではないのか、と、思われる方もおられるかもしれません。
それは、ごもっともなこと。しかし、これは仏さまの国でのお話。いのちは皆等しく尊いものであると言えども、それぞれいろんな違いがあるのが、私たちの生きている世界です。もし仮に、極端な左寄りな考え方に基づいて、すべての人が、均質的に平等な状態になるとしましょう。まずは、物質的に平等になりますから、財産も食べ物も、みな分け隔てなく、同じだけもらえるようになります。
しかしどうでしょうか。物質的に同じになったとしても、人それぞれに、いろんな違いがあるもの。運動が得意な人もいれば、勉強が得意な人もいますし、運動も勉強も苦手だけど、絵を描くことや、音楽が得意だという人もいるでしょう。要領のいい人がいれば、マイペースにゆっくり物事を行う人もいる。外見も人それぞれ違いますし、話すのが得意な人もいれば、物静かな人もいます。そうなると、卑俗な例えですが、物質的に同じだけ持つことができても、モテるモテない、というような格差が出てきたりすることもあるわけです。それでは当然、不平等ですし、また均質的に平等になるということは、素晴らしいことのように思えますが、人それぞれ持つものを、大事にしない、ということにも繋がってくるでしょう。
みんなが一緒であるということは、誰でも一緒、と言うことと、そう違いはありません。顔の違い、性格の違い、経験・体験の違い、得手・不得手の違い、人それぞれが持つ違いがあるのに、それが無いもののように無視されていく。果たしてそれが、理想的な社会のあり方と言えるでしょうか。
そのような画一的な平等は、仏教の平等とは、異なるように思います。仏教は、いのちは等しく尊いものであると考えますが、だからこそ、人それぞれ持つものを大切にする教えではないかなと、私は思います。人それぞれ、いろんな違いがあって、同じ人は一人としていない。だからこそ、いのちは尊く、光り輝くのではないでしょうか。
そういう風に考えますから、平等と言うことについて、違いを均(なら)し、みんな同じようにしていって平等だ、とするのではなく、みんな生まれも生活環境もそれぞれ違う。違うのが当たり前なのだから、その違いを、お互いに認め合い、お互い尊いいのちだと敬い合っていけることこそが、真の平等である、と考えるのだと思います。
と、ずいぶん話がそれてしまった気もしますが、こういう風に見ていくと、仏教の立場は、一般的な左寄りの立場とも、一線を画すように思います。極端に左寄りになるあまり、過激な意見や行動を示すのも、逆に反発を生むだけですし、主義主張が違うだけで、「自分たちの考えが全て!絶対的に正しい!」となってしまえば、極端に右に傾くことと、そう変わりはないようにも、思えますからね。
そのような両極端な立場ではなく、右でも左でもなく、その両方を超えた、別の視点から物事を考えていくことが大切であり、偏った両極端な立場に立つことの危うさ、極端によらない道を歩むことを勧めてくれるのが、仏教の教えの一つであるのです。
「前向き」に「デキるひと」を目指して

4月になり、新生活になる方も多いと思います。
先日、本屋に行くと新生活コーナーとしていろいろ並んでおりました
ビジネス本に自己啓発本、ハウツー本…なりたい自分になる、なんてキャッチフレーズ。
デキるひとに見られるマナーなんてのも。
どれも、完全体や理想を目指すものばかり。
私もそういう本が嫌いじゃないので、ついつい手にとって眺めてしまうけど。
どこの誰とも知らない誰かが、ある種の「答え」を書いています。
それに踊らされ、私もこうありたいと思ってしまう。
それならまだしも、そういう完全体でない自分にダメ出しをして
凹んでしまうこともよくあります。
そのひとが考えた「答え」でしかないのに、それが全てだと思ってしまうんですね。
で、それに当てはまらない自分を卑下したりするんです。
もちろん、ああそうか!と目から鱗で勉強になることもたくさんあるんですけどね。
優等生であろうとする自分がいるのですね、どうしても。
親に対しても、他人に対しても、家族に対しても。
よりよく見せたい、と思うんです。
なのでこうしてメリシャカに投稿してても、どうにもいい子ぶりっこしようとする自分がいる。
お寺の子だから、真面目に見えたほうがいいんじゃないかとか。
ひとの親になったのだから、思慮深くあったほうがいいんじゃないかとか。
でも、おそらくそんなことは、仏の視線からいえば、どうってことない些細なことなんだろうなぁ。
そんな見え透いたシタゴコロなんてお見通し、なんだろうなぁ。
そういった大きな視線を思い出すと、凹んでた気分がちょっとだけ、回復する気もします。
それはよく言われるような前向きな姿勢、と表現するのもちょっと違う気がしています。
仏教は決して前向き ではないと思うのです。
前ばかり向いていると、後ろ方向が見えない。
自分が踏みつけてきたものや、押しのけてきたものが見えない。
少し後ろから必死で追いかけてきているものの姿が見えない。
横並びにつながっている少し先のものが、見えないかも。
だから、前向きにという言葉に対して、少し慎重でありたいなという気持ちがあります。
本当は、四方八方のものやひとに囲まれて、私は今立ってるんですよね。
それを教えてくれたのが、お釈迦様でした。
やはり、おのれはおのれを振り返り、顧みることで気づかされることがたくさんあります。
でも、いろんなフィルタがかかっている状態でじぶんひとりで見てもダメで
自分以外の誰かの力に助けてもらって、じっくり根本的なところを振り返ることが大事だと思います。
生き方を顧みる時には、仏教という智慧の集大成の力はとっても有効かなと思います。
流行に左右されたり、購買意欲を煽ったりしませんしね。
またいい子ぶりっこの文章になってしまいましたかね?笑
えっと、ともあれ新しい年度を迎えました。
メリシャカも3年目となります。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
もうすぐメリシャカ!!





