でなければならない

ども、ケンユウです。シャカ斬りも毎度の事ながら久しぶりですねぇ。
さて今回は、別に気になるニュースがあったわけでもないのですが、ちょっと気になる事があるので、それについて今回は語らせていただこうかな、と思います。
で、その気になる事というのは、「〜でなければならない」というような、強く理想を求めるような考え方、です。まあこういう考え方って、今に始まったものじゃなくて、私自身も含め、人は誰しもが結構持っているものなのかもしれないのですが、そういうものの考え方が、個人的に最近、すごく気になるんです。

なぜ「〜でなければならない」という考え方が気になるかと言いますと、このものの考え方って、ものすごく極端というか、偏ったものの見方なんですよね。
例えば、「痩せてなければならない」とか、「男は稼ぎがなければならない」とか、「女性は慎ましやかでなければならない」とか、まあいろいろあるかと思います。
で、そう言う考え方って、理想に向かっていく姿勢として、すごく大事なものなんですけど、その反面、他を否定・排除してしまうような、悪い意味での強さも持っていると思うんです。
どういうことかと言うと、何かしら「〜でなければならない」という考え方を持っているとして、自分自身がそれを求めて行く分には何の問題もないのですが、その条件に当てはまらないモノや人だっているわけです。そう言う自分の理想とかけ離れたモノや人に触れた時、別にそのモノはそのモノ、その人はその人、というように、なんとも思わなければいいのですが、理想を求める事を自分がしていると、そうでないモノや人を見たとき、どこかしら蔑みであったり、或いはその理想の強要をしてしまうような面が、出てきてしまうことがある、ということです。

例えば、健康ブームや、アンチエイジング、ダイエットなどの情報が、よく取り上げられるのは、私たちのどこかに「健康でなければならない」、「若くなければならない」、「痩せていなければならない」という思いがあるからで、それに当てはまっていないというか、そうでない人や、そう言う努力をしていない人を、怠惰だとか、自己管理が出来ていないとか、そう言う目で見たりもするでしょう。
いろんな流行があって、流行に乗ることこそがカッコいい事だと思っていれば、その流行に乗れていない人がいると、古い、ダサい、センスが無い、なんて、時代の流れだけで物事を計ってしまって、その人のスタンスや考え方を否定してしまうこともあるでしょう。もちろんその逆もあって、流行に流される事がかっこ悪い、と思う事もまた、流行には流されるべきではない、という強い理想があり、流行に乗ることを否定的に見てしまう事もあるかと思います。
それはつまり、自分と考え方が違うものを受け入れられない、ということですし、その理想に対する思いが強ければ強いほど、理想とかけ離れたモノや人に出遇った時、それを否定してしまったり、相手に「あなたもこうでなければ」と理想を強要してしまうように思います。

また、「〜でなければならない」という考え方は、他を傷つけ、受け入れられなくなってしまうばかりか、自分自身にとってもマイナスに働く事があります。
それはどういう場合かと言うと、自分が自分の理想どおりに行かなくなってしまった時、です。
その現実を、すんなり受け入れられれば問題ないのですが、「〜でなければならない」という理想に縛られたままだと、その理想と現実のギャップに苦しまねばなりません。
そうすると、自己矛盾を解消しようと、どこか自分の行いや考え方に歪みが生じてきてしまう、そんな気がします。

これはちょっと例えとして大きくなってしまうのですが、いじめ問題で、以前文部科学省は、いじめはゼロにしていかなければならないと言う理想を掲げました。もちろんこの理想は崇高なもので、これが実現されればすばらしいことですし、実現させなければならない事でもあります。
しかし、現実問題としてどうなったか。
ゼロでなければならないと言う理想はものすごく高い理想ですし、当然それにすぐ現場がついて行くことはできません。それでもゼロにしなければ、という理想がついて回りますから、「ゼロにしていかなければ」がいつの間にか「ゼロにしなければ」「ゼロでなければ」というように、現実を無理矢理に理想化する為に、事実を黙殺したり、隠蔽したり、現実を直視せず見てみぬフリをするようになってしまい、実際にいじめが起こっていても、それが上には報告されず、全国規模のいじめの発生に関する調査でも、年間のいじめ件数は「ゼロ」、どこでも起こっていないと言うようなデータがでるようになり、いつの間にかいじめは問題とならなくなりました。
その現実問題として無理のある理想を求めすぎた歪みが、去年はじけて、大きな社会問題となったことは、皆さんも記憶に新しいかと思います。
今では、その理想は改善され、いじめは必ずあるものとしてとらえ、ではそこからどうしていくのか、と言うことを考えるようになりました。この考え方は、いじめをゼロにするという理想とは背反する考え方ですが、いじめを減らし、いじめから人を守り助けることを考えるのであれば、こちらの考え方のほうがよほど現実的です。

このいじめに対する物の考え方は、「〜でなければならない」という私たちが持ちがちなものの考え方に、一石を投じてくれているような気がします。
我々はついついいろんなものに理想を抱きがちですし、自分を理想化、絶対正しい者と考えがちです。
もちろん理想に燃えることは悪い事ではありませんが、それは、時として、その理想に反する他の考え方を否定し、他を傷つけたり、他や、個々の違いというものを受け入れる事ができなくなってしまうこともあります。
さらには、自分を理想化し、正しい者としてしまうと、自分がその理想に反してしまった時、正しくなくなってしまった時、なんとしても自分を正しい存在として形を保っておきたいと言う思いが働き、現実を直視できなくなったり、その自分を見てみぬフリをしてしまい、ウソをつかなくてはならなくなったり、物事を隠蔽せねばならなくなったり、歪んだ物の考え方や行動を生じさせかねません。
それではやはりいつか無理が生じ、歪みの反動に襲われる事もあるでしょう。

それを防ぐには、自分の考え方は絶対的なもの、必ずしも正しいものではなくて、人とは違うものなのだ、ということを念頭においておくことや、人に対して、理想を求めすぎないことが大切なのかもしれません。人はそれぞれ、考え方や感じ方に違いがあるのが当然ですし、最初から人と自分は違うとわかっていれば、人が自分の理想に反していても、その違いを受け入れる事ができるでしょう。また、人に理想を求めすぎなければ、その人が自分の理想通りの人でなくとも、失望することはないでしょうし。
或いは、自分をあまり理想化しすぎないことも大切でしょう。自分は絶対に正しいとしてしまうと、正しくない自分に出遇ってしまった時、必ず失望せねばなりませんし、考え方や行いに歪みが生じてきます。ですから、自分は絶対の存在などではなく、曖昧な、不確かなものであると言う現実を見つめ、その上で、その不確かな、常に正しいとは限らない自分と、どう付き合っていくのかを考えることが、自分を正しい方向へと向けていける道であるのではないでしょうか。
それはつまり、自分に対しても、他人に対しても、「〜でなければならない」と極端な考え方で臨むのではなく、「〜でいいじゃないか」「〜でなくてもよい」と、物事を柔軟に受けとめ、そこからどうしていくべきかを考え行動していくことかな、と思います。

まあもちろん、お仕事の面などで、妥協を許されない事だってありますし、その辺はメリハリと言うか、けじめをしっかりつけなくてはならないと思います。それでも、きっちりとしないといけない部分以外では、少し肩の力を抜いて臨むと、楽になる部分も、きっとあるかと思います。
ま、長々と書いてきたこの考え方だって、一つの考え方で、こうでなければいけない!!というわけではありません。私だってこんな事書きながら、それが実践できてるわけもなく、結構頑固なところがあったりして、人を拒絶したり、言う事を素直に聞けなかったりとしておりますし、ね。でもま、こういう考え方も、ちょっと頭の片隅に置いておくと、何かにぶつかった時、それを乗り越える道が見つかるかも、しれません。

と、久しぶりに書いたら長くなってしまったので、このへんで。
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