親心

「這えば立て 立てば歩めの 親心」という川柳が昔からあって、
わが子の成長を願う親の気持ちを表したものだと言われます。
実際、親になってみて、ひとつひとつできることが増えると、「次は…」と思います。

もちろん、発達の見通しを持つことは大事だし、心配な部分があると子どもの成長を願う気持ちでいっぱい。
それに見合った、関わり方や危険への配慮も必要だし、しつけを見越した言葉かけなんてのも、大事な親の仕事です。


でも、この川柳、実は戒めの意味もあるんじゃないか、って思うんです。

成長を願うだけでなく、次々とこうなってほしいこうしてほしい、と思う…
それによってより多くのプレッシャーを与えているんじゃないか?
育児書やほかの子と比較して早いとか遅いとか思うばかりで、この子自身を見ていないんじゃないか?
子どものためと言いながら、実は親のエゴのため・楽するためだけになっていないか?
そして、親心には人それぞれ、みんないろんな親心があるってことを忘れ、
自分の子さえ、自分さえよければいいと、思っていないか?

人間の欲望にはきりがない。
そこを自覚した上で、ひとりひとりのその時その瞬間の、“この子”の成長を喜べているか?

そういう意味合いもあるんじゃないかな、って。



真宗では、阿弥陀仏のことを「親」と表現することがある。
いつも子どものことを思って見守ってくれる、見捨てないでくれるという意味合いがあるのですが、
自分が親になってみて感じます。

親だけど、親であればある程、執着や欲や優越感に劣等感、増すと思います。
自分の子を守ろうとしたり、かわいく思うあまり、他人のことを考えられなくなっているのではないか、と自問自答です。


阿弥陀仏のことを親さまと言う時、自分が親であることとは全く違うな…と感じます。

私の思い通りに行かないと、イライラもする。
子どもだって、思い通りにならないと泣くし、不機嫌になる。

私も子どもも一人の人間だから、人格があってそれぞれの年齢の“思い”がある。
その思いに添いあった関係性を築けるかどうか。

最近は子どもを“作った”“作る”なんて表現をする人が多いけれど、粘土細工じゃあるまいし、
作るものではないと思います。
子どもは、親の所有物ではないし、自分の願いを投影する対象でもないと思う。


人間の親心は、、、なかなか難しい。


…最近、夜泣きに悩んでいる、私です…。ああ、眠たい…。

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