瞳を閉じて
お久しぶりのsakullaです。
お休みしている間に、書けることから書けないことまで、それはもう色々なことがありまして…。
あまりに色々ありすぎたので、何から書いていいのか分からないほどの飽和状態に陥っているのが正直なとこ。
なのでとりあえず、休む前まで戻って何があったのか少しずつ書いていこうと思っています。
「あなたにとって仏教とは何か?」
そう問われたら
「目を見開くこと」
そう答えるだろう。
それは視覚的なことだけではなくて。
この目で見、この体で感じている全てのことの中心には私がいる。
だから、全てをありのまま受け入れようとしたとしても、それはあくまで主観、私の価値観に置き換えられたものであり、そのままの状態を保たれたものではない。
その価値観から切り捨てられたものも多々あるのだろうけど。
それらもまた、必ず私と繋がりあっていて、決して切り捨てられるものではない。
繋がりあって、はじめて存在することができるということを説くのも仏教。
その繋がりはあまりにか細く、辿ることが困難だろうとも。
意識しようがしまいが、目に見えようが見えまいが、その繋がりがなければ今の私は存在しない。
私の幸せは誰かの嘆きと無関係ではなく。
私の生活が何かの破壊と無関係ではなく。
そういうことを踏まえた上で、自己中心の価値観にとらわれ偏った世界を見ている自分と、見ようとしなかったもの、見たくはなかったことを、目を逸らすことなく、目を見開いて、見つめる。
それが私にとっての仏教。
では、「あなたにとって結婚とは何か?」
そう問われたら
「両目をつむること」
そう答えるだろう。
これは母が私に言い続けていたこと。
相手に対して怒りや不満を抱くということは、相手が自分の価値観にそぐわないから。
だけどそれは、相手を自分の価値観に合うように変えようとすること。
…自分は変わる気などないのに。
相手の価値観を排除し、自分の価値観の正当性のみを主張すれば、結末は自ずと見えてくる。
同じ価値観など存在しない。
それぞれが違っていて、その違いを楽しむ余裕がないのなら…目をつむりなさい。
両親の間にいったい何があったのか…聞くのは怖いのでやめておく。
そんな夢のカケラもあったもんじゃない助言のもと、昨年の6月に結婚した。
確かに怒りや不満も出てくるが、笑いや喜びも多い。
なんとなくだが、近い価値観だから笑いあったりできるのだと思っていたけど、異なる価値観を持っているからこそ、新しい発見があると同時に、その摩擦で笑うことができたりするのではないかと考えたりした。
要は、あらゆる感情の発火点は、価値観がぶつかり合ったときの摩擦であり、喜怒哀楽といった全ての感情は同じところから噴き出しているということ。
同じ発火でも、異なる感情が生じるのは、互いの経験に基づく価値観が違うから。
すると、自己という、とらわれているものがなければ摩擦も生じないし、感情もなくなるということになるわけか…まぁ、これはあくまで私の感想。
とりあえず今のところ、結婚生活は片目をつむるくらいで、それなりに楽しんでいるのだが…。
きっと、相手が両目をつむっていてくれているのだろう。
目を見開いて見てみれば、何ごともお互い様というわけだ。





