十月十日の朝
- 2009年06月17日(水) 文:sakulla
- 仏声人語
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【朝】という漢字は【十月十日】が組み合わさってできている。
人が生まれるまでに有する月日。
人が生まれるために必要な月日。
母親の胎内にいることが許される月日。
それが十月十日。
長いような短いような、そんな時間を、期待と不安の中で、育ってゆく。
育つのは赤ちゃんだけではなく。
母として、父として。
家族が一緒に育ってゆく。
つながり合うことで、一緒に育てられてゆく。
それが十月十日。
幸せはどこか遠くにあるのではない。
幸せは明日やその先にあるわけではない。
もっと綺麗だったら幸せだったとか。
あの人と結婚してたら幸せだったとか。
ないものねだりをしても、例えその願いが叶ったとしても。
そこに私の思っていた幸せはない。
私を思う母の愛。
私を思う父の愛。
今、私がある。
この私という存在を照らす、朝の光に、足元にある親の愛を見る。
いま、ここにある幸せを見る。
子が病気になれば寝ずに看病するけど、その逆はない。
子が親を思うより、親が子を思う気持ちの方が大きい。
子は親の愛を忘れてしまうけど、親はいつまでも子を大事に思っている。
だが、必ずしも、そうとは言えない現実がある。
当たり前と思っていた親子の構図は、当たり前ではなく有り難く思える現実がある。
だからこそ、変わらぬ思いに。
ただ1人の我が子に、心を傾けるような思いに。
十月十日の間にあった、確かなつながりが、生まれ出でた今なおあることに。
安心することができるのだろう。
朝日にも似た、仏の光が、私の足元を照らしている。
…というような法話をしていた時期があった。
けど、今するのなら、違う法話になるだろう。
去年、男の子を出産した。
すると面白いことに、自分が親から生まれた子供という立場で作った法話と、子供を生んだ親という立場で作った法話では、感じ方が違ってくることに気がついた。
前者の法話の原稿を読み返すと、自分がいかにエゴイストであったかがよく分かる。
そして後者は、自分の世界の中心が子供に移ったことがよく分かる。
だが、人は守るべきものができたときのほうが、往々にしてエゴイストになるものだ。
つまりは、私の世界は更に偏ったというわけか。
目線が庇護下にあった子供から、ただ我が子一点を見つめる親へと変化したことで、母に喩えられる仏の想いが身にしみるようにもなったのだが…。
同時に、その逆はないということを、身をもって痛感中。
そう、【母は仏ではない】
コメント
- ぞ
- 2012/09/28 12:47 AM






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