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皆さんメリシャカ。
少しづつ春の足音が近づいてきましたね。でもまだまだ寒暖の差が激しいので、寒さに負けないようにしたいものです。
さて今回は、仏教の受け取り方、ということについて少しお話させていただきます。


仏教は敷居が高い、と言われておりますが、最近ではネットの普及や、いろんな仏教関連の書物の出版、仏像ブームやお寺でのイベントなどなど、仏教に興味がある方にとっては、仏教に触れやすい環境になってきている様に感じます。twitterもそうですし、チスイさんが告知してくださった、Ustreamを用いた企画、ダダモレ坊主第2段!「こんなお坊さんどうですか会議」も、まさにその良い例でしょう。

そんな中で、仏教の教えをどのように受け取るかということが、一つ大切になってくるように、最近思うようになりました。


仏教に限らず、なんでもそうだと思うのですが、物事には二つの見方があります。一つは物事を三人称的視点に立つ見方、もう一つは、一人称的視点に立った見方です。言い換えれば、三人称的視点というのは、客観的で、情報を冷静に分析・判断する見方であり、一人称的視点というのは、主観的で、自分の感情とか感覚というものに基づいた見方であります。


現代社会では、どちらかと言えば、前者の方、三人称的視点、個人的な感情や感覚と言った主観を廃した客観的で冷静な物の見方が出来ることが求められる場面が多いように感じます。
仏教に触れるにあたっても、この客観的な判断というのは大切なもので、お釈迦様の教えは、簡単な言葉で語られるものもありますが、我々の思考を遥かに超えたものを、譬えを用いて語るものもあるため、それを正しく理解していくためには、冷静な分析と判断が求められます。


しかし仏教は、そこだけで終わってしまっては、単に知識としての物にしかなりません。仏教を研究すること自体が目的であったり、情報・知識として仏教を活用したいのであれば、それでよいのかもしれませんが、宗教として、自分にとっての救いの道として仏教を受け取りたいのであれば、その第三者的な視点から、もっと主観的立場、仏教は自分に必要なものである、という立場に立たなければならないように思います。


その為には、生老病死を始めとした「苦」の問題を、他人事ではなく、自分の事として受け取らねばなりません。一般論として「苦」の問題を考えるのではなく、全ては自分が引き受けていかねばならない問題であると受けとめた時に、仏教が自分に必要なもの、自分に語られている教えであるとなってくるのではないでしょうか。


お釈迦様の教えがまとめられたお経には、例えばお弟子の一人であるサーリプッタ(舎利弗)に語られるものであったり、釈尊の身の回りのお世話をされたアーナンダ(阿難)に呼びかけるように説かれる場面がよく出てきたりいたします。これは、お釈迦様の教えが、二人称で説かれたものであったと言えるでしょう。お釈迦様のご説法が、応病与薬、人の悩みに応じて説かれたというのも、まさにそれをよく表すものだと思います。


そういう二人称で説かれた教えでありますから、お釈迦様が説かれた教えは、広く一般的な教えという受け取りはもちろんのこと、この私自身に向けられた教えであると受け取って初めて、意味を為してくるのだと思います。その受け取りの方の顕著な例が、『歎異抄』の中にある親鸞聖人のお言葉「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」というものではないでしょうか。


しかし、そうやって我が事として仏教を受け取るというのは難しいことでもあります。それは私たちが客観的な物の見方を要求される時代に生きているということもありますが、様々な「苦」の問題を、なかなか自分自身の問題として受け取れないというところにも原因があるのでしょう。こんなことを偉そうに書きながら、私自身も、まだまだ我が事として、仏法を受けとめきれていないように感じます。ですから今回書いたことは、自分にとっての課題でもあります。


お経の中で、お釈迦様が教えを説かれる対象としている舎利弗尊者や、阿難尊者の部分、あるいは「衆生」と書かれてあるような部分に、自分の名前を当てはめて拝読してみると、また味わいが変わってくるかもしれませんね。

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