涙が流せる場所
先日8カ月の娘と初めてのお留守番を体験した。
連れ合いが腰を痛めてしまい病院に行く間、わずか数時間だが娘の面倒を見ることに。
育児でほとんど一人では外出できていない連れ合いに「診察してもらったら、コーヒーでも飲んでゆっくりしておいで!」と余裕の言葉をかけた。連れ合いは娘が昼寝をしている間にそそくさと病院に向かった。
連れ合いが腰を痛めてしまい病院に行く間、わずか数時間だが娘の面倒を見ることに。
育児でほとんど一人では外出できていない連れ合いに「診察してもらったら、コーヒーでも飲んでゆっくりしておいで!」と余裕の言葉をかけた。連れ合いは娘が昼寝をしている間にそそくさと病院に向かった。
娘はすぐに目を覚ましては、目をパチクリとさせる。何しろいつも一緒にいる母親がいないし、いつもお参りで一緒にいない父親が珍しく顔を覗き込んでいるからだ。
僕は娘が泣かないように、すぐさまデンデン太鼓をデンデンと鳴らし、離乳食をあげた。
食べ物で紛らわせる作戦である。
娘はテレビの「お母さんといっしょ」を見ながら、離乳食を食べる。そして食べ終わると退屈気にするので、すぐさま哺乳瓶でミルクを作り飲ませた。
飲み物で紛らわせる作戦である。
NHK教育で大人が見ても楽しめる番組「みいつけた!」を見ながらミルクをチュパチュパ飲む娘を見ながらに、僕は自分に育児の才能があるのではなかろうかと思う。
僕が見ている間中、全然娘は泣かなかったのだ。
僕はその時、こう思った。
「この子は僕に似てお利口な子だ」と。
娘はミルクも飲み終え、テレビ番組にも飽きてきたので、僕はすぐに娘のお気に入りのデンデン太鼓をデンデンデンデン鳴らし、自作の曲を歌う。娘は無言。
そうこうしていると連れ合いが家に帰ってきた。意外と早く夕食の買い物だけしてきたようだ。
自分の母親を認識した途端、娘は「ウギャー!」と泣きだして連れ合いに抱っこをせがむ様に両手を伸ばしたのだ。連れ合いに抱かれながら、娘はグズって甘えて泣いて、それからニマーっと笑った。
「いつも一緒の人の前でなら、涙も安心して流せるのだな」と僕はその時ふと思った。
生まれてこの方毎日、ご飯から下のお世話まで全てをしてもらっているお母さんの前で、娘はありのままを出せたのだろう。
いくら泣いても放り出されることはない、見捨てられることのない存在の中で、泣いたり笑ったりできたのかもしれない。
仕事で家をあけがちで、いつも外にお参りばかり行っている僕には、まだ十分慣れていなかったのかもしれない。
そして、娘だけではなく、大人である僕たちも、自然と喜怒哀楽が見せられる家族や、友達がいるということは素敵で有難いことではないかと思い当った。
現代社会は「鬱の時代」であると、作家の五木寛之氏は言っていた。誰しも凄まじく慌ただしい日常で、必死に頑張って生きている。そして、自分を偽り、演技し抑圧して上手く感情を出せてないことがあるのではないだろうか?
娘と母親の関係と同様に、僕たちが家のお仏壇やお寺にお参りをし手を合わせると、なんとはなくホッとするのは、仏さまが僕の涙も、笑顔も、家族や友達にさえも見せられない、誰にも言えない胸の内も全て聞きぬいて下さっているからに違いない。
そして、嬉しいことも、悲しいことも、秘密も、愚痴も、失敗も、全て聞きぬいて下さる仏さまの前に、安心して生き抜いて、息を抜いていくことができる居場所があるのだと思った。
僕は娘が泣かないように、すぐさまデンデン太鼓をデンデンと鳴らし、離乳食をあげた。
食べ物で紛らわせる作戦である。
娘はテレビの「お母さんといっしょ」を見ながら、離乳食を食べる。そして食べ終わると退屈気にするので、すぐさま哺乳瓶でミルクを作り飲ませた。
飲み物で紛らわせる作戦である。
NHK教育で大人が見ても楽しめる番組「みいつけた!」を見ながらミルクをチュパチュパ飲む娘を見ながらに、僕は自分に育児の才能があるのではなかろうかと思う。
僕が見ている間中、全然娘は泣かなかったのだ。
僕はその時、こう思った。
「この子は僕に似てお利口な子だ」と。
娘はミルクも飲み終え、テレビ番組にも飽きてきたので、僕はすぐに娘のお気に入りのデンデン太鼓をデンデンデンデン鳴らし、自作の曲を歌う。娘は無言。
そうこうしていると連れ合いが家に帰ってきた。意外と早く夕食の買い物だけしてきたようだ。
自分の母親を認識した途端、娘は「ウギャー!」と泣きだして連れ合いに抱っこをせがむ様に両手を伸ばしたのだ。連れ合いに抱かれながら、娘はグズって甘えて泣いて、それからニマーっと笑った。
「いつも一緒の人の前でなら、涙も安心して流せるのだな」と僕はその時ふと思った。
生まれてこの方毎日、ご飯から下のお世話まで全てをしてもらっているお母さんの前で、娘はありのままを出せたのだろう。
いくら泣いても放り出されることはない、見捨てられることのない存在の中で、泣いたり笑ったりできたのかもしれない。
仕事で家をあけがちで、いつも外にお参りばかり行っている僕には、まだ十分慣れていなかったのかもしれない。
そして、娘だけではなく、大人である僕たちも、自然と喜怒哀楽が見せられる家族や、友達がいるということは素敵で有難いことではないかと思い当った。
現代社会は「鬱の時代」であると、作家の五木寛之氏は言っていた。誰しも凄まじく慌ただしい日常で、必死に頑張って生きている。そして、自分を偽り、演技し抑圧して上手く感情を出せてないことがあるのではないだろうか?
娘と母親の関係と同様に、僕たちが家のお仏壇やお寺にお参りをし手を合わせると、なんとはなくホッとするのは、仏さまが僕の涙も、笑顔も、家族や友達にさえも見せられない、誰にも言えない胸の内も全て聞きぬいて下さっているからに違いない。
そして、嬉しいことも、悲しいことも、秘密も、愚痴も、失敗も、全て聞きぬいて下さる仏さまの前に、安心して生き抜いて、息を抜いていくことができる居場所があるのだと思った。





