仏縁の華
今回はケンユウさんの結婚ネタに便乗しよう。
私が結婚して、今月で丸2年が経過した。
不定期連載している【出産記録】にあるように、紆余曲折の2年ではあったが、その日々を後悔したことは…ないような…あるような…。
ただ、平凡な日常を送れることの素晴らしさを教えてくれた、掛け替えのない歳月であったことは間違いない。
久しぶりに自分の結婚式を思い返そうと、パソコンの中にある結婚式のフォルダを開く。
そこには、出席した友人に【言葉責めの披露宴】と言わしめた、普通じゃありえないほどの文章の数々が封印されている。
中でも、その象徴ともいえるのが【新婦謝辞】。
母の「人前で泣くのはイヤ」というニーズに応えた結果、両親への手紙を読むべきときに、私は出席者へのお礼の手紙を読むことにした。(両親への手紙は記念品贈呈のときに一緒に渡して、披露宴終了後にきっちり泣いてもらった)
以下、原文より抜粋。
ご存知の方も多いこととは思いますが、私たちは2人とも浄土真宗本願寺派の僧侶でございます。
僧侶同士の結婚、そのことに違和感を覚える方は、本日おいで下さった方の中では少ないことと思います。
しかし、私の友人や親族、そしてご協力くださっているスタッフの方々の中には、とても物珍しい結婚と思われている方もいらっしゃいましょうし、違和感を覚える方も中にはいらっしゃるかもしれません。
私自身は、僧侶の結婚を深く考えることなく過ごしてきたほうの人間でございました。
しかし、以前出席させていただいた披露宴の際に拝聴したご祝辞で、自分の思い違いに気付かせていただきました。
それは式で司婚者をお勤めになられた梯実圓和尚の僧侶の結婚についてのお言葉でした。
世間を出て、一人で生きていくということは実は気軽なことで、世間の中で、大切な人と共に生きることのほうが、実は大変なことかもしれません。
世俗には様々な苦しみが溢れています。
僧侶が妻帯するということは、出家者が切り捨てた世俗の苦悩を引き受ける覚悟が伴うもの。
それは、仏教が世俗化することではなく、世俗を仏教化することである。
なぜなら、世俗化した仏教に、もはや世俗を救う力はないからです。
そのお言葉は、婚姻という制度自体に憧れているだけの私を浮き彫りにするものでした。
そして、僧侶となったときに自身が下した決断と、それに伴う覚悟を思い出させていただく言葉でもございました。
浄土真宗が在家僧侶といえども、世俗に生きる僧侶が、流れに任せて世俗化するというだけならば、僧侶が僧侶である必要はなく、私もまた僧侶とならず、ただ念仏者としての道を歩めば良かったということになります。
世俗にいながら、世俗と同じ苦しみを背負い、同じ痛みを味わいながら生きて、そして何より自分の中にあるどうしようもない欲望の存在を直視して。
それでも世俗化するのではなくて、仏教化への道を歩むという覚悟。
1人では難しいことではございますが、今の私には手を取る相手ができました。
彼となら困難を極める道も、臆することなく進むことができると信じております。
この結婚には僧侶としての、私の覚悟が込められております。
そして、私どもの結婚が、本日お越し下さった方々や、ご協力下さった方々だけではなく、これから出遇うであろう、ありとあらゆる方々の中にある、仏縁の華を咲かせるものであるよう、勤めて参りたいと思っております。
この結婚が、世俗を仏教化することの第一歩と信じながら…。
以上、回顧録終了。
いやぁ、我ながら可愛げのない挨拶だな…ピンクのカラードレスを着ながら読む文じゃないよ。
大風呂敷を拡げてるが、その後の歩みを思うと、とても胸を張ることなどできやしない。
もっとも、胸を張るようになっては僧侶の世俗化の完了だろうと、自分の有り様を言い訳しつつ、この場が誰かの仏縁の華を咲かせる場になればと淡い期待を抱いていたりもする。
というわけでケンユウさん、ご結婚おめでとうございます。
あなたが放すまいと繋いだ手と手の間から、新たな仏縁の華が咲き乱れることを願っています。





