お金では買えないもの
- 2010年07月30日(金) 文:tatsuya
- 仏声人語
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先日、ブータン旅行に行ってきた。ブータンは、ヒマラヤ山脈の麓に位置する人口約70万人、大きさは九州より少し大きい山岳国である。ブータンといえば、世界最後の桃源郷・信号のない国・世界一幸せな国とさまざまな形容をされるが、仏教を国教として国づくりをしている国でもある。
んの躊躇もなく、ほぼみんな「幸せです」と答えられた。
(ブータンでであった少年)
この旅の中で忘れられない思い出がある。
それは、一軒のお宅を訪問した時のこと。そこは、ママさん一人で営業している小さいレストラン。ブータンでは英語を話せる人が多い。道ばたで「I AM JAPANESE」「JAPANESE MONK」と話していると、「MY Father is Monk」と話が弾み。「どうぞ どうぞ」とレストランの中に案内された。お金を持っていない私は「NO MONEY」と繰り返し言うと、「OK、OK」と言われ、席に座った。すると、その女性がブータン名物の焼きそばを出してくれた。「食べて下さい」と言うこと。初対面の私に食事を提供してくれるやさしさに感動すると共に、私はゾッとした。なぜなら、それはさっきまで蠅がたかっていた料理だからである。「いただきます」といいながら、残そうか?食べようか?お腹壊さないだろうか?と心の中では葛藤があったが、食事を出して下さった心に感謝をしながら食事を頂いた。
(タクサン寺院)
その時に、お釈迦様の事が思い出された。インドの郊外にてお釈迦様が遊行中に、鍛冶屋息子チュンダがお釈迦様に茸をお布施した。それを食したお釈迦様は下血をして、体調を崩した。
お釈迦様は苦しみながらアーナンダに告げた。
私の死後、チュンダが布施した食事で釈迦を死に至らしめたと皆から非難されたらと思い、次のことを話した。
私にとってこの生涯で2つの尊い供養の食事があった。
1つは苦行をやめた時に村娘が施してくれた乳粥。
もう1つはチュンダが供養した食事
と、お釈迦様は命をかけて法を説き続けた。
当時のインドである。冷蔵庫はない。チュンダの施した食事が腐っていたかもしれない。お釈迦様はそれを承知で食べたのかもしれない。お布施をしてくれた人に合掌をして、頂いたものをそのまま頂く。それは、頂いたものに対してではなく、その背後にある因縁・恵みに感謝をしてのこと。
仏教では「縁起」を説く。そこから、さまざまな関わり合いの中で生きている私の姿が見えてくる。ブータンの人たちは一人一台テレビがあることが幸せではない。いつでも冷たい飲み物が飲めることが幸せではないことを知っている。人と人とが助け合い、支え合っていく中に「しあわせ」を感じる、目に見えないものこそ本当の価値があることを教えてもらったブータンの旅だった。





