お坊さんと結婚
- 2010年08月14日(土) 文:kenyou
- 仏声人語
- comments(1)
みなさんメリシャカ。
毎日暑いですね。言わないでおこうと思ってもつい暑いとこぼしてしまいます。
さて、今回は先月に引き続いて、結婚ネタです(笑)
“現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげなりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば目をまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力の衣食ににて申されずば、他人にたすけられて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。衣食住の三は念仏の助業也。”『和語灯録』
これは法然上人のお言葉です。
“現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげなりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば目をまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力の衣食ににて申されずば、他人にたすけられて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。衣食住の三は念仏の助業也。”『和語灯録』
これは法然上人のお言葉です。
書かれてある内容を一言で言えば、この世間を生きていくために、念仏を称えることを軸としなさい。念仏を称えることの妨げになることは避けなさい、ということでしょうか。
時折ですが、お坊さんは結婚しても良いのですか?という質問を受けます。
そもそもお坊さんは、家庭や財産を捨てた出家者であるのだし、また戒律の中にも不邪淫という戒律があるのだから、妻帯しないのが本来なのではないか。であるのに、今の日本では多くのお坊さんが結婚している、それで良いのですか?というところから来る質問だと思います。
確かにその通り、なのです。けれど浄土真宗では、その開祖である親鸞聖人が、妻を持たれました。
なぜ僧侶であった親鸞聖人が妻を持たれたのか。もちろん僧侶であるからには、妻を持たないのが本分なのでしょう。けれど上に挙げた法然上人のお言葉には、「念仏を生活の軸としやすいようにしなさい。聖人のように戒律を保っていくほうが念仏しやすいならそうすればよいし、妻や家庭を持ったほうが念仏しやすいのであれば、妻を持ち家庭を持ちなさい」という内容のことが書かれてあります。その言葉を受けて、自分が念仏を軸とした生活、つまりは宗教的な、自らを見つめ続ける生活をするためには、妻がいたほうがいい、家庭があったほうがいいと親鸞聖人は考えられたのではないでしょうか。大切なのは生活形態にあるのではなくて、自らを省みていく姿勢に、宗教の本質があるのであって、その助けとなるのであれば、妻を持ち家庭を持つことにも、自分にとっては大きな意義がある。親鸞聖人はそのように考えられてご結婚されたのだと思います。
その親鸞聖人のお考えを受けて、浄土真宗の僧侶は、結婚をするようになったのだと思います。ですから、自分が何のために結婚するのかを考えるのかが大切になってくると思います。
その中で、もし結婚が自分の宗教的な在り方、常に自分の姿を振り返るということの妨げとなるのであれば、すべきではないでしょうし、ゼッタイに結婚しなければいけないというわけではありません。
けれど、私も先ごろ結婚して、一人ではないという生活が始まりました。妻と一緒に生活するということは、何事も自分のペースではいけません。互いに歩みを揃える姿勢が大切になってきます。つまり、何事も自分の思うままではいけないのです。そんな生活の中で、今まで気づかなかった自分の姿、特に自分の自分勝手な振る舞いに気付かされることも多く、また、感謝の気持ち、あるいは人の気持ちを考えるということにも、たくさん気付かされることがあります。これはおそらく、独り身では気づけなかったことではないかな思います。
私は、正直なところ、親鸞聖人のように、結婚が念仏を中心とした生活の助けになるというような思いをもって結婚をしたいと思ったわけではありません。自分も一人の人間であり、あるいは寺の後継者として、結婚すべきであるし結婚したいと思っておりました。けれども、結婚した今、改めてこの法然上人の言葉を読んだ時、自分の考えの無さに恥ずかしく思うと共に、ああ、僧侶として結婚する事の意義というのは、ここにあるのだなと今更ながらに気づきました。
念仏を軸とした生活、自分の在り方を常に問い続ける生き方というのは、一人であってもできることでしょう。けれども、結婚して、自分一人ではない生活の中で様々に煩悶し、葛藤する中で見えてくる自分の有様というのも少なからずあるように思います。
そういう意味で、私は結婚が念仏、仏法を自分の人生の依り所として、自らを見つめていく生活を送る助けとなるものではないかと、今感じております。
時折ですが、お坊さんは結婚しても良いのですか?という質問を受けます。
そもそもお坊さんは、家庭や財産を捨てた出家者であるのだし、また戒律の中にも不邪淫という戒律があるのだから、妻帯しないのが本来なのではないか。であるのに、今の日本では多くのお坊さんが結婚している、それで良いのですか?というところから来る質問だと思います。
確かにその通り、なのです。けれど浄土真宗では、その開祖である親鸞聖人が、妻を持たれました。
なぜ僧侶であった親鸞聖人が妻を持たれたのか。もちろん僧侶であるからには、妻を持たないのが本分なのでしょう。けれど上に挙げた法然上人のお言葉には、「念仏を生活の軸としやすいようにしなさい。聖人のように戒律を保っていくほうが念仏しやすいならそうすればよいし、妻や家庭を持ったほうが念仏しやすいのであれば、妻を持ち家庭を持ちなさい」という内容のことが書かれてあります。その言葉を受けて、自分が念仏を軸とした生活、つまりは宗教的な、自らを見つめ続ける生活をするためには、妻がいたほうがいい、家庭があったほうがいいと親鸞聖人は考えられたのではないでしょうか。大切なのは生活形態にあるのではなくて、自らを省みていく姿勢に、宗教の本質があるのであって、その助けとなるのであれば、妻を持ち家庭を持つことにも、自分にとっては大きな意義がある。親鸞聖人はそのように考えられてご結婚されたのだと思います。
その親鸞聖人のお考えを受けて、浄土真宗の僧侶は、結婚をするようになったのだと思います。ですから、自分が何のために結婚するのかを考えるのかが大切になってくると思います。
その中で、もし結婚が自分の宗教的な在り方、常に自分の姿を振り返るということの妨げとなるのであれば、すべきではないでしょうし、ゼッタイに結婚しなければいけないというわけではありません。
けれど、私も先ごろ結婚して、一人ではないという生活が始まりました。妻と一緒に生活するということは、何事も自分のペースではいけません。互いに歩みを揃える姿勢が大切になってきます。つまり、何事も自分の思うままではいけないのです。そんな生活の中で、今まで気づかなかった自分の姿、特に自分の自分勝手な振る舞いに気付かされることも多く、また、感謝の気持ち、あるいは人の気持ちを考えるということにも、たくさん気付かされることがあります。これはおそらく、独り身では気づけなかったことではないかな思います。
私は、正直なところ、親鸞聖人のように、結婚が念仏を中心とした生活の助けになるというような思いをもって結婚をしたいと思ったわけではありません。自分も一人の人間であり、あるいは寺の後継者として、結婚すべきであるし結婚したいと思っておりました。けれども、結婚した今、改めてこの法然上人の言葉を読んだ時、自分の考えの無さに恥ずかしく思うと共に、ああ、僧侶として結婚する事の意義というのは、ここにあるのだなと今更ながらに気づきました。
念仏を軸とした生活、自分の在り方を常に問い続ける生き方というのは、一人であってもできることでしょう。けれども、結婚して、自分一人ではない生活の中で様々に煩悶し、葛藤する中で見えてくる自分の有様というのも少なからずあるように思います。
そういう意味で、私は結婚が念仏、仏法を自分の人生の依り所として、自らを見つめていく生活を送る助けとなるものではないかと、今感じております。
コメント
ただの偽善であるし、言い訳としか思えない。結婚したいのなら僧侶を辞めるべきである。結婚は煩悩の一つであり僧侶は戒律を破るべきではない。神への冒涜である。
- 聖人
- 2011/08/06 2:37 PM





