日常への出口
- 2010年08月17日(火) 文:sakulla
- 仏声人語
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本来だったら、お腹が大きくなってきた頃から、夫婦で揃えていく出産準備の品々。
何一つ揃える間もなく切迫流産によって入院、そのまま出産。
NICUに運び込まれ、長期入院を余儀なくされた我が子。
家に迎える目処の立たない生活が続いていたため、私たち夫婦は赤ちゃんのために揃えておくべき品々に対して、現実味を感じることができないままでいた。
ベビーベッド
布団一式
バスタブと入浴セット
肌着と着替え
授乳クッション
哺乳瓶の煮沸・消毒セット
チャイルドシートにベビーカー
その他もろもろ、挙げていけばキリがない。
着替えもタオルも哺乳瓶も、全て病院の備品であって、そこに自分の趣味や個性を反映する余地などない。
そして、それが当たり前になっていた私たちは、赤ちゃん用品が売られている店内で、いったい何を買っていいのか途方に暮れた。
無地のレンタル品を見慣れた私たちの目には、色味のある単なる肌着でさえ眩しく映る。
そして、「この生活がようやく終わるんだ」という実感がジワジワと湧いてきた。
「いつか終わる」
切迫流産で入院したときも。
早産で、息子がいつ退院できるか分からず、天を仰いで泣いたときも。
その涙を懸命に拭きながら、来る日も来る日も搾乳して、笑顔で面会に訪れて。
検査結果に一喜一憂しては、互いを励ましあって。
出口の見えない闇の中を歩いているような精神状態だったけど。
いつか終わると、出口はあると、無自覚に信じていた。
信じていたから、踏ん張ることができていた。
これは日常ではなく、非日常なんだからと。
けれど、出口が見えた途端、言葉にし難い不安に襲われた。
この生活は終わるけど、これから始まる生活に終わりはない。
非日常から日常への転換。
そのことへの心の準備ができていなかった。
なぜなら自分の中に親として、あってはならない甘えがあることに気がついたから。
毎日面会に通っていても、24時間そばに居続けたわけではない。
赤ちゃんがグズっていても時間になれば帰宅して、家事や寺務をこなして自分の時間を過ごす日々。
私がいなくても、医師や看護師さんに任せることができたから。
私がいなくても、赤ちゃんは育つという無力感と安心感がそこにはあった。
子供を産んだのに、そう思える環境は、紛れもなく非日常の空間だ。
親はなくとも子は育つ。
だが、親は子がいなくては育たない。
しかし、子がいても育たない親もいるということを、我が身をもって知らされた。
そして、これから始まる日常は、終わりのない道なんだということを自分に言い聞かせることで、己の甘えを打ち消した。
その途端、日常が終わることもあるんだという現実に思い至り、恐怖する。
どうか…どうか、この子と共に過ごす日常を私から奪わないで欲しいと切に願った。
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