「いのち」を見る違和感
- 2010年09月09日(木) 文:チスイ
- 仏声人語
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最近、自分の中でお念仏を称える者の生き方はどんな生き方なのだろうか?と自問自答することがよくあります。
先日ある研修会でこんな尊い御話をお聞きしました。
その方は男性の僧侶ですが、自分で食事を作ろうとお店に買い物に行った時、ふと気づかれたことがあるそうです。
それは豆腐を手に取る時に、賞味期限のできるだけ長いものから取っていたと気づかれたのです。
先日ある研修会でこんな尊い御話をお聞きしました。
その方は男性の僧侶ですが、自分で食事を作ろうとお店に買い物に行った時、ふと気づかれたことがあるそうです。
それは豆腐を手に取る時に、賞味期限のできるだけ長いものから取っていたと気づかれたのです。
豆腐だけではなく、肉魚、牛乳など、棚の一番奥から取っている自分に、その時はっと気づかれたそうです。 その方はそれからは意識して、賞味期限の一番短い、手前のものから取るようにされたのです。
その僧侶はこのようなことをおっしゃいました。 「自分一人がそのようなことをしたって、何の影響力もないでしょう。エコというのも恥ずかしいくらいです。でもその行為を通して初めて、自分は他の『いのち』を奪わねば生きていけない、他の『いのち』によって生かされているのだと肌で感じました」と。
私はその話に激しく揺さぶられました。
仏教は一切のいのちの繋がりがあり、「私」が成り立っているという世界観です。
「個人」があり「社会」が成り立つという、あくまでも「個」を優先とする西洋の世界観とはそこが異なります。
あらゆるいのちの繋がりとは、人間だけではありません。
動物にも植物にも全てにそれぞれ、かけがえのないたった一つ「いのち」があり、お互い支え合い相寄りあって成り立っています。
しかし、私はというとその「いのち」を奪わねば一日たりとも生きていけない。いやそれどころか、「いのち」を頂いているという事実にまで無自覚でいたのです。
勿体ない事をたくさんしても、そのことに無自覚で無感性な自分がいました。
特に現代社会は大量生産、大量消費。スーパーやコンビニではできるだけ賞味期限の長いものを数多く陳列しているお店が流行るという仕組みです。日本で一日に300万食が廃棄されるということを聞いたことがあります。
私自身先日、スーパーでヨーグルトを買う時に、やはりふと後ろの方に手が行きそうになりました。しかし意識して一番手前の物を手にとってみました。 その時に感じた何とも言えない違和感。
お念仏を称える者の生き方とは、その違和感を感じる自分の在り方を問うていくことではないか?と思ったのですがいかがでしょうか。
その僧侶はこのようなことをおっしゃいました。 「自分一人がそのようなことをしたって、何の影響力もないでしょう。エコというのも恥ずかしいくらいです。でもその行為を通して初めて、自分は他の『いのち』を奪わねば生きていけない、他の『いのち』によって生かされているのだと肌で感じました」と。
私はその話に激しく揺さぶられました。
仏教は一切のいのちの繋がりがあり、「私」が成り立っているという世界観です。
「個人」があり「社会」が成り立つという、あくまでも「個」を優先とする西洋の世界観とはそこが異なります。
あらゆるいのちの繋がりとは、人間だけではありません。
動物にも植物にも全てにそれぞれ、かけがえのないたった一つ「いのち」があり、お互い支え合い相寄りあって成り立っています。
しかし、私はというとその「いのち」を奪わねば一日たりとも生きていけない。いやそれどころか、「いのち」を頂いているという事実にまで無自覚でいたのです。
勿体ない事をたくさんしても、そのことに無自覚で無感性な自分がいました。
特に現代社会は大量生産、大量消費。スーパーやコンビニではできるだけ賞味期限の長いものを数多く陳列しているお店が流行るという仕組みです。日本で一日に300万食が廃棄されるということを聞いたことがあります。
私自身先日、スーパーでヨーグルトを買う時に、やはりふと後ろの方に手が行きそうになりました。しかし意識して一番手前の物を手にとってみました。 その時に感じた何とも言えない違和感。
お念仏を称える者の生き方とは、その違和感を感じる自分の在り方を問うていくことではないか?と思ったのですがいかがでしょうか。
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