「老い」について、つれづれ
- 2010年10月22日(金) 文:とし
- 仏声人語
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某大学の学生さんからメリシャカに連絡がありました。なんでも、研究テーマにメリシャカやお寺座ライブのことを取り上げたいということで、メールのやり取りでは気持ちが伝わりにくいと思い、つい先ほど電話でお話ししました。今回は、その中身ではなく、それをキッカケに思ったことをつらつらと。
質問の内容は、メリシャカが出来た成り立ちやイベントに関して。一回り以上年下の人にきちんとした敬語で話を尋ねられると、こちらが急に歳を取った気になりました。30代前半までは、年齢を意識したことはほとんどなく、逆に、お寺にいると40代でも若手と言われるほどなので、はやく歳を取りたいと思ったほどです。老いの話を度々耳にしても、いまいちピンときませんでした。それが、今回、若い大学院生と話すことによって、急に年齢を感じました。丁寧に恐縮しながら話を聞こうとする態度に、こちらもそれに応えようと一生懸命話します。「若い人に想いを伝えたい」もしくは、「若い人に何かを託したい」という想いが芽生えました。
うちのお寺では児童劇団があるので、そのOBを中心に10代から30代までが時折り立ち寄ってくれます。そこでのぼくの呼び名は「としくん」。高校生もそう呼んでくれます。年齢に関係なく、いつも同じような目線で話しているので、自分が随分年上だということもすっかり忘れてしまいます。
一方で、お寺に集まるおばあちゃんやおじいちゃん、法事でお会いする方々は、「住職」と呼びます。はじめの数年は「勘弁してくれ」という想いでしたが、いつしか観念して、どのように呼ばれても慣れるようになりました。ひとつ印象深い記憶としては、お寺に帰り着いた頃、お参りに来る方の中で、ぼくに向かって合掌してくる人たちがいたことです。これには心底参りました。当時、自己否定に陥っていたこともあって、「こんな汚れまくっている人間になんてことを!」と、その都度、合わせる手をほどこうとしたり、愛想笑いをして逃げるように立ち去っていました。それから数年経ち、考え方が徐々に変わっていきました。よく考えてみると、ぼくに向かって合掌をしてくる人は、何もぼく自身に手を合わせているんじゃなくて、ぼくを通して、仏さまに手を合わせている。それをほどこうとするとは、なんたる傲慢。自意識過剰を恥じました。以後、合掌してくる人には、合掌を返しを出来るように心掛けています。
思うがままに書いていると、何を言いたいのかわからなくなってきましたが、今回改めて思ったことは、「老い」は誰もが一時も止まらずに進んではいるけど、その環境によって、気の持ちようは変わってくるなぁということ。そして、老いを感じた時に、それに逆らおうとする自分がいました。「あるがままに」とはなかなかいきませんね。ただ、その年齢になって初めてわかることもたくさんあるので、ひとつひとつを丁寧に貪欲に受け取りたいものです。
先輩僧侶の口癖で、人生をフルコースに例えています。
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