ひとを見送る。
- 2010年11月02日(火) 文:るる
- 仏声人語
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先日、祖母が亡くなりました。
昭和元年に生まれた祖母なので、行年85歳の往生でした。
身体は弱っていたし、認知にも問題が出ていたので、心配はずっとしていましたが、
急と言えば、急な出来事ではありました。
私はおばあちゃん子だったので、思い出がたくさんあります。
私の名前の由来を教えてくれたのも、おばあちゃん。
大人の女性になる身体の仕組みを教えてくれたのもおばあちゃん。
掃除や靴を並べることなどの礼儀を教えてくれたのもおばあちゃん。
学校での悩み事を聞いてくれたのも、成績を褒めてくれたのも。
そして、浄土真宗の教えを最初に伝えてくれたのも、おばあちゃんです。
そういうひとを、見送りました。
昭和元年に生まれた祖母なので、行年85歳の往生でした。
身体は弱っていたし、認知にも問題が出ていたので、心配はずっとしていましたが、
急と言えば、急な出来事ではありました。
私はおばあちゃん子だったので、思い出がたくさんあります。
私の名前の由来を教えてくれたのも、おばあちゃん。
大人の女性になる身体の仕組みを教えてくれたのもおばあちゃん。
掃除や靴を並べることなどの礼儀を教えてくれたのもおばあちゃん。
学校での悩み事を聞いてくれたのも、成績を褒めてくれたのも。
そして、浄土真宗の教えを最初に伝えてくれたのも、おばあちゃんです。
そういうひとを、見送りました。
でも、弔問に来られた方が私たちの知らない祖母のエピソードを語ってくれたり、戦争中の思い出話をしてくださるのを聞いているのは、とても心が温まる時間ではありました。
家族で、祖母の話をしていて、私だけが知っている祖母の初恋の話もありました。
大事に大事に、見送ることができたのは、よかったなぁと思えました。
つくづくと、考えたことがあります。
浄土真宗の法話では、よく、「亡くなった方がいのちをかけて、残された者のために、仏さまの教えを伝えてくださったのだ、だからこれを仏縁として、お念仏の人生を歩みましょう」と言われます。
私は、この言い回しに違和感を感じていました。
「いのちをかけて」と言うと、死ぬことによって仏さまの教えが伝わるのだ、とも聞こえます。
また、その人が心穏やかな、まるで聖者のようであったと言っているように聞こえていたのです。
多くの場合、仏さまの教えを伝えるために死ぬわけではないし、年若くして亡くなる場合、自死の場合、事故の場合、事件の場合・・・不慮のケースもあります。
死にたくない、死にたくない、苦しい、痛い、辛い、哀しい・・・そう感じながら煩悩のままに亡くなる場合は、どうなるのだ、と思っていました。
だから、その人が ”自分の意思で” 仏法を伝えようとしている、というような表現はおかしい、
「仏さまが、その人の死を通して、私たちに伝えたいことがある」と表現する方が正しいのではないか、と思っていたのです。
祖母が亡くなって、自分の間違いに気がつきました。
「亡くなった方がいのちをかけて・・・」と表現する、そのときすでに、その人は仏になっていたのでした。
亡くなったその瞬間に仏となっているのだから、仏の意思で私たちに仏法を伝えている、という意味と同じであったのです。
私が違和感を感じていたのは、「亡くなった方」という表現を、まだ生身の煩悩の人間としてとらえていたにすぎなかったのですね。
どんな最後を迎えても、その瞬間に人は仏になれる。
この浄土真宗の教えを、私は本当に理解してはいなかったのでした。
祖母は辛いことも楽しいこともたくさんあった人生、煩悩のままに生きた人生だったけれど、それをそのままそっくり持っていても、お浄土ではあらゆる煩悩から解放され、新しいいのちとなる。
その瞬間から阿弥陀仏と同じ働きを持ち、私たちのところへ還ってきてはたらいてくださる。
このことを、「ああ、そうだったのか・・・」としみじみと感じることができたのでした。
まさに、仏縁としかいいようのない、導きでした。
ちなみに・・・祖母の法名を確認したところ、私の法名と同じ文字「香」の字が入っておりました。
なんだか、とても嬉しく思いました。
祖母の思いを引き継いで、これからも大事にしていこうと改めて思っています。
家族で、祖母の話をしていて、私だけが知っている祖母の初恋の話もありました。
大事に大事に、見送ることができたのは、よかったなぁと思えました。
つくづくと、考えたことがあります。
浄土真宗の法話では、よく、「亡くなった方がいのちをかけて、残された者のために、仏さまの教えを伝えてくださったのだ、だからこれを仏縁として、お念仏の人生を歩みましょう」と言われます。
私は、この言い回しに違和感を感じていました。
「いのちをかけて」と言うと、死ぬことによって仏さまの教えが伝わるのだ、とも聞こえます。
また、その人が心穏やかな、まるで聖者のようであったと言っているように聞こえていたのです。
多くの場合、仏さまの教えを伝えるために死ぬわけではないし、年若くして亡くなる場合、自死の場合、事故の場合、事件の場合・・・不慮のケースもあります。
死にたくない、死にたくない、苦しい、痛い、辛い、哀しい・・・そう感じながら煩悩のままに亡くなる場合は、どうなるのだ、と思っていました。
だから、その人が ”自分の意思で” 仏法を伝えようとしている、というような表現はおかしい、
「仏さまが、その人の死を通して、私たちに伝えたいことがある」と表現する方が正しいのではないか、と思っていたのです。
祖母が亡くなって、自分の間違いに気がつきました。
「亡くなった方がいのちをかけて・・・」と表現する、そのときすでに、その人は仏になっていたのでした。
亡くなったその瞬間に仏となっているのだから、仏の意思で私たちに仏法を伝えている、という意味と同じであったのです。
私が違和感を感じていたのは、「亡くなった方」という表現を、まだ生身の煩悩の人間としてとらえていたにすぎなかったのですね。
どんな最後を迎えても、その瞬間に人は仏になれる。
この浄土真宗の教えを、私は本当に理解してはいなかったのでした。
祖母は辛いことも楽しいこともたくさんあった人生、煩悩のままに生きた人生だったけれど、それをそのままそっくり持っていても、お浄土ではあらゆる煩悩から解放され、新しいいのちとなる。
その瞬間から阿弥陀仏と同じ働きを持ち、私たちのところへ還ってきてはたらいてくださる。
このことを、「ああ、そうだったのか・・・」としみじみと感じることができたのでした。
まさに、仏縁としかいいようのない、導きでした。
ちなみに・・・祖母の法名を確認したところ、私の法名と同じ文字「香」の字が入っておりました。
なんだか、とても嬉しく思いました。
祖母の思いを引き継いで、これからも大事にしていこうと改めて思っています。
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