冥利
- 2010年12月14日(火) 文:kenyou
- 仏声人語
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よく「〜冥利に尽きる」と慣用表現として使われますが、本来の意味は“仏さまや菩薩さまが人知れず与える利益(りやく)”とか“知らず知らずの間に神仏から受ける利益や恩恵”と言う意味だそうです。そこから、人知れず、自分の意識しないところで人に恵みや利益をもたらすことを「冥利」と言うそうです。「冥」というのは暗いという意味の漢字ですから、明るみに出ず、目に見えないところでもたらされる利益、ということでしょう。
この「冥利」というもの、本来は仏さまがもたらすものでありましょうけれど、人もまた、いろいろな「冥利」をもたらしたり、人から知らず知らずの恩恵を受けているものであると思います。
例えば、お店を開くとしましょう。お店を開いて物を売るのは、まずなによりも自分の生活のため、お金という利益を得るためでしょう。けれど、その近所に住む人にとってみれば、近くにお店ができることは、生活が便利になることでもあります。つまり、お金という自らの利益を求めたはずが、実は近所の人に便利を提供するという利益をもたらし、同時に、人に喜ばれるという利益を得ることになります。これが「冥利」ではないでしょうか。
そう考えますと、「冥利」というのはいろんなところにあります。
自分のためと思ってしていたことが、案外人のためになったり、こんなこと何の役に立つのかとか、自分は今何をしているんだということが、どこかで人の役にたっているのかもしれません
。 逆に考えれば、私という一人の人間は、数限りない人やいのちの「冥利」のはたらきによって、今生かされているとも考えられるでしょう。今誰しもが持っているケータイ一つにも、いろんな人の「冥利」が詰まっているのだと思います。
私たちは目に見えなくとも必ずどこかで繋がっています。知らず知らずにいろんな場面で誰かに支えられ、意識しなくとも、誰かを支えていることもあるのでしょう。
それはなかなか実感できることではありません。ですから、自分の存在意義に疑問を感じてしまいます。何のために自分は在るのか、自分が此処に存在する理由や意味はあるのか、と。
けれども、人一人がもたらす影響というのは、大変大きなものであると私は思います。それは、次の子孫を残したりとか、目に見える分かりやすいものもありますが、大半は目に見えない影響だと思います。そしてそれは、機械の歯車のように換えが効くものではありません。「私」でないと与えられない影響、「あなた」でないと与えられない影響なんです。私の一挙手一投足、あなたの一挙手一投足が、目には見えなくとも周囲に影響を及ぼす。それによって、それぞれの「今ここ」があるのです。
けれど、私たちがもたらす影響は、良いものだけとは限りません。日々の行いの中で、悪い結果をもたらす行いもあるでしょう。人を傷つけたり、人を騙したりという目に見える悪い行いもあれば、気づかずに人の不利益となることをしてしまうような、「冥利」とは逆のこともあるはずです。
それは自分の意識や意図とは離れたところで及ぼしてしまう影響ですから、如何ともし難いものであるでしょう。けれど、そういうものがあることを意識すれば、自分の自分勝手な振る舞いを自重することに繋がるかもしれません。
目に見えるものや実感できるものばかりを信じ求めてしまう私たち。けれどもそういう私の意識や思考の範囲の外で、互いに深く影響し合っている。
そのことにちょっと想像力を働かせてみることで、むやみに自分の存在を悲観せずに済んだり、自分の行いを振り返るきっかけとなったり、気付かなかった「おかげさま」ということにも目を向けていけるのかもしれませんね。
この年の瀬、今年一年を振り返ると共に、自分がさまざまな「冥利」をいただいている身であり、あるいは、人に良かれ悪しかれ影響を与えている身でもあることに、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
この「冥利」というもの、本来は仏さまがもたらすものでありましょうけれど、人もまた、いろいろな「冥利」をもたらしたり、人から知らず知らずの恩恵を受けているものであると思います。
例えば、お店を開くとしましょう。お店を開いて物を売るのは、まずなによりも自分の生活のため、お金という利益を得るためでしょう。けれど、その近所に住む人にとってみれば、近くにお店ができることは、生活が便利になることでもあります。つまり、お金という自らの利益を求めたはずが、実は近所の人に便利を提供するという利益をもたらし、同時に、人に喜ばれるという利益を得ることになります。これが「冥利」ではないでしょうか。
そう考えますと、「冥利」というのはいろんなところにあります。
自分のためと思ってしていたことが、案外人のためになったり、こんなこと何の役に立つのかとか、自分は今何をしているんだということが、どこかで人の役にたっているのかもしれません
。 逆に考えれば、私という一人の人間は、数限りない人やいのちの「冥利」のはたらきによって、今生かされているとも考えられるでしょう。今誰しもが持っているケータイ一つにも、いろんな人の「冥利」が詰まっているのだと思います。
私たちは目に見えなくとも必ずどこかで繋がっています。知らず知らずにいろんな場面で誰かに支えられ、意識しなくとも、誰かを支えていることもあるのでしょう。
それはなかなか実感できることではありません。ですから、自分の存在意義に疑問を感じてしまいます。何のために自分は在るのか、自分が此処に存在する理由や意味はあるのか、と。
けれども、人一人がもたらす影響というのは、大変大きなものであると私は思います。それは、次の子孫を残したりとか、目に見える分かりやすいものもありますが、大半は目に見えない影響だと思います。そしてそれは、機械の歯車のように換えが効くものではありません。「私」でないと与えられない影響、「あなた」でないと与えられない影響なんです。私の一挙手一投足、あなたの一挙手一投足が、目には見えなくとも周囲に影響を及ぼす。それによって、それぞれの「今ここ」があるのです。
けれど、私たちがもたらす影響は、良いものだけとは限りません。日々の行いの中で、悪い結果をもたらす行いもあるでしょう。人を傷つけたり、人を騙したりという目に見える悪い行いもあれば、気づかずに人の不利益となることをしてしまうような、「冥利」とは逆のこともあるはずです。
それは自分の意識や意図とは離れたところで及ぼしてしまう影響ですから、如何ともし難いものであるでしょう。けれど、そういうものがあることを意識すれば、自分の自分勝手な振る舞いを自重することに繋がるかもしれません。
目に見えるものや実感できるものばかりを信じ求めてしまう私たち。けれどもそういう私の意識や思考の範囲の外で、互いに深く影響し合っている。
そのことにちょっと想像力を働かせてみることで、むやみに自分の存在を悲観せずに済んだり、自分の行いを振り返るきっかけとなったり、気付かなかった「おかげさま」ということにも目を向けていけるのかもしれませんね。
この年の瀬、今年一年を振り返ると共に、自分がさまざまな「冥利」をいただいている身であり、あるいは、人に良かれ悪しかれ影響を与えている身でもあることに、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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