Smells like ...

皆さまあけましてメリシャカ。

本年もどうぞよろしくおねがいします。


さて今回は「匂い」のお話。

ある時、小さな料理屋さんを営んでおられるおウチへお参り行ったときのこと。
お参りを終えて、お茶をいただきながらお話をしていると、ふとしたことで、そのお宅のご主人の手が、顔の近くにきました。すると、その手からは、ふっと、魚の匂いがしたんです。

きっと毎日のように魚を扱っている手だからこそ、魚の匂いがその手に染み付いたのでしょう。

その日の昼食の時、そのことを家族にも話していると、ウチの住職が「匂いが染み付いているのは、魚を扱っている人だけじゃないぞ、お坊さんもや」と言うんです。

「はて?」と一寸考えると、思い当たるフシがありました。

そう、お線香です。でもそんなにお坊さんは線香臭いのかな?と思っていると住職が、「昔京都に行ったときに、衣ではなくスーツでタクシーに乗ったのに、運転手さんに『お客さん、ひょっとしてお坊さんですか』と言われたことがある。自分では自分が線香臭いことに気づいてないだけや」と言うんです。

なるほど、確かに自分で自分の匂いというのはわからないものかもしれません。


その匂いというものは、もちろん自分の体から発する臭いもあるでしょう。でもその他に、日々の生活の中で染み付く匂いというものもあるかと思います。

例えばタバコ。タバコを吸う人は、日々タバコを吸う事で、タバコの匂いが染み付きます。あるいは、犬を飼っているおウチに行くと、犬の匂いがしたりもします。

外からうつる匂いは、一時しか触れるないものならば、しばらくすれば消えるでしょう。しかし薫習という言葉もあるように、継続的に触れることによって、その匂いがその人のものになります。


これは習慣も同じかもしれません。日々の生活の中で、何度も繰り返すことによって、体に染み付きます。

ウチの亡くなった祖父は、ある時脳梗塞になり、言葉が出なくなるということがありました。

それでも祖父は病院に行きたくないのと、法務もあるからと、家族の静止を降りきってお参りに出かけました。

しかし心配だったので、私が祖父がお参りに行ったお宅に迎えに行き、そのお宅のご主人に事情を話すと、「でも、お経はちゃんと揚げとんなったよ?」と言うんです。

言葉は出なくても、毎日毎日唱えていたお経はきっと体に染み付いていたのでしょう。


仏法というものも、そういうものなのかもしれません。

「念仏することや、仏法を聞くことに何の意味があるのか?念仏しても法話を聞いても、人は変わらない」なんてことを言う方がおられますが、一度や二度念仏を唱えたり、あるいはお寺で仏教のお話、法話を聴聞しても何も変わりはしないでしょう。

けれど何度も口にお念仏を唱えたり、耳に仏法を聴聞することで、身に染み付いてゆくものがあるのではないでしょうか。

それは劇的に人格が変わることではないでしょう。

けれど、体に匂いが染み付くように、ほんの少し、自分の在り様がよく見えるようになったり、視野が広がったりするのだと思います。

匂いと言えば、親鸞聖人のお書きになられたご和讃の一首に、こういうものがあります。

“染香人(せんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる”

染香人というのは、仏さまの智慧の香りに染まった人、お念仏を喜ばれる人のことを言います。

そういう人からは、まるで良い香りがしてくるかのように、阿弥陀仏のはたらきによって、その人の生き様が美しく飾られる、ということを表されたご和讃です。


しかし、身につくのは何も良いことばかりではありません。

善くない行いも、継続していく中で、悪習として身に付いてしまうこともあります。

悪臭がなかなか取れないように、悪習を改善するということも難しいものです。

できることならば今年一年、悪習を身につけてしまうのではなく、仏法が少しでも身に染みてゆくような過ごし方をしたいものですね。
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