バイキンマンの願い
- 2011年02月18日(金) 文:sakulla
- 仏声人語
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さて、息子に初めてアンパンマンのアニメを見せたときのこと。
それまで縫いぐるみのアンパンマンしか知らなかった息子は、動いているアンパンマンに、指を差して歓声をあげた。
しかし、バイキンマンがチーズ(犬)に思いっきり引っ掻かれて痛がっている場面を見て、突然息子が泣き出した。
痛がるバイキンマンを可哀相にと思ったかは分からないが、その涙と感受性が母親として嬉しくもあった。
たとえ相手が誰かを傷つける存在だったとしても、その者もまた自分と同じように傷つき、痛みを感じる存在なのだということを、学びながら大きくなっていって欲しい。
正義の鉄槌があるのだとしても、その槌を振り下ろす葛藤も迷いもなく、正義という大義名分からの自信のみで遂行することの恐ろしさを、大きくなったら思い出して考えて欲しい。
親の願いばかりを押し付けて、自省のない子育てにならないか心配だが、バイキンマンの痛みに泣いた息子を思い、そんなことを考えたりした。
その息子が、簡単な処置ではあるが全身麻酔の必要な手術を2日前に受けた。
3時間を超える手術を待ち続ける時の流れは遅く、目を覚ました途端泣き出した息子の声に、ようやく時間が正常に動き始めたような気がした。
こんなとき、親にできることはただただ願うことだけだと痛感して気づく…私もまた、親に願われ続けてきた存在だということに。
だれだけ傷つけ、どれだけ苦労をかけ、どれだけ涙を流させてきたのだろうか…。
それでも、たとえどんな思いをさせられようとも、子供のことを願わずにはいられない親心。
その親心に私は生かされてきたという気づきは、息子の無事を願い続けた私の心に温もりを与えてくれる。
そしてその親心は、血のつながりを超えた、阿弥陀さまというみ親のお心の願いに気づかせ、触れさせていただく機縁ともなることを、親となってより身近に感じるようになった。
「願われている存在」
その喜びと温もりに、息子が気づく日が来ることを、また願う。
そして、願われているという気づきから踏み出す一歩が、同じように願われている他の存在に温もりを伝えるものであったなら…。
そう生きることが容易ではないことを知る母の願いは、自省と共に胸にしまっておくことにしよう。

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