750

チスイさんも紹介してくださいましたが、「彼岸寺」がリニューアルしました。
私はそこで「そもさん、せっぱ〜お坊さんとの対話〜」というコーナーを担当させていただいております。 
チスイさんにもご紹介いただきましたので詳しいことは省きますが、ツイッターで#somosepaとタグをつけて質問すると、お坊さんが答えてくれるという企画です。ツイッターを利用されておられる方は一度お試し下さいませ。 

さて、今年は浄土真宗では親鸞聖人の750回忌の大法要が勤まります。西本願寺では4月から来年の1月まで法要が続くそうです。
しかし750年。長い時間です。今の日本人の平均寿命は、男女平均で約83歳だそうですが、その約9倍にあたります。 
歴史に思いを馳せてみても、親鸞聖人が生きられた時代は平安末期。それから現代までの時間で、実に様々な出来事があり、空を飛べたり遠くの人と話ができたり、ネットで繋がり合ったりと、当時の人からすれば、考えられもしないような事が、今できるようになっていたりもします。750年とは、それほど長い時間です。 

ところが、仏教における時間感覚は、もっととんでもありません。

 今大河ドラマで「江」を放送しておりますが、織田信長がしきりに「人間五十年〜」と歌を唄っておりました。信長は、この「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という「敦盛」の一節を愛していたと伝えられております。 
ところがこの一節、当時の人の寿命が50年くらいだったということを「人間五十年」と言っていると誤解されがちです。 
本来は、仏教の世界観の中で「天」という世界があり、その「天」の一番下の下天と呼ばれるところであっても、その一昼夜の長さが人間世界の50年に相当し、それに比べれば人間の一生など儚いものだ、という意味だそうです。 
人間の50年が、天人のわずか1日分とは、驚きですよね。 
そうすると、750年という、長い長い時間も、仏教の時間感覚からすれば、わずか15日相当。 
しかも天人の寿命は人の10倍というのですから、どのくらいの時間なのか検討もつきません。

 他にも、「劫(こう)」という時間の単位も仏教にはあるのですが、これもまたとんでもないものです。
 一説には、一辺40里(中国における単位で1里=約500m)四方の城壁の中に、3年に一度(100年に一度説もある)天女がやってきて、芥子の粒を一つ置いていき、その城壁の中が芥子粒で満たされるまでの時間が一劫とか、一辺40里四方の岩があり、3年に一度天女がやってきてその岩を衣で一撫でし、岩が摩滅し尽くすまでの時間を一劫と言うそうです。
 ちなみにこの一劫は、ヒンドゥー教においては梵天(ブラフマー)にとっての一日(半日という説も)と言われるそうで、古代インドの計算方法に従って人間の時間単位に直すと、43億2000年になるとか。 
うーん、もうなんだかワケがわかりません。750年という時間も長いのかどうかわからなくなってしまいました。 

けれど、どんなに長い時間であっても、一瞬一瞬、一日一日の積み重ねによって紡がれていくものです。 
ですから、自分に与えられた限りある一瞬一瞬を大切にさせていただきつつ、 750年という時間を経ても私たちのところにちゃんと届いている親鸞聖人の示された教えを、自分のところだけで終わらせてしまうのではなく、また次へ次へと伝え残していけるようにしたいものですね。
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コメント
「そもさん!」「せっぱ!!」は禅宗に限られた仏教用語ではないのですね。個人的にはとんちでお馴染み臨済宗、一休宗純和尚のイメージが強く…
  • かっきぃ
  • 2011/02/14 4:44 PM








   
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