悪人
- 2011年03月13日(日) 文:kenyou
- 仏声人語
- comments(2)
先日ツイッターで、念仏は恐ろしいもの?というような議論がなされていました。
念仏すれば、誰でも救われる。
それが、心もこもっていない、ただ口から出しただけの念仏であっても、強制的に言わされた念仏であっても、
念仏すれば救われるのであれば、強姦魔や殺人鬼が念仏しながら罪を犯しても、救われるのか?という意見が出ておりました。
念仏すれば、誰でも救われる。
それが、心もこもっていない、ただ口から出しただけの念仏であっても、強制的に言わされた念仏であっても、
念仏すれば救われるのであれば、強姦魔や殺人鬼が念仏しながら罪を犯しても、救われるのか?という意見が出ておりました。
浄土真宗の教え、或いは念仏の教えは、大変誤解をされやすい教えです。
「悪人正機」という言葉も、悪い行為を行う人こそが救われるのであれば、自分の好き勝手に生きれば良いと誤解されてもおかしくない言葉です。
けれども上に書いた二つの事柄、念仏すれば誰でも救われるとか、悪行や罪を犯すものが救われるということは、私は正しい理解であるとは思いません。
ここには一つ欠けていることがあるからです。
それは「悪人」が誰なのかという問題です。
一般に悪人と言えば、悪い行いをした人、社会における法を破り、罪を犯した人を言います。けれど浄土真宗で言う悪人は、そういう罪を犯したどこかの誰かのことを指してはおりません。
指しているのは「この私」なんです。
私こそが悪人。
罪を犯していないのに、なぜ悪人なのか。
確かに、法は犯してはいないかもしれません。
けれどこの心の中で、人を殺したいと思うほど憎んだり、人を傷つけるような言葉を吐いたり、嘘偽りを述べたり、常に自分が正しいと思い込み、自らを省みること無く、人の気持を考えず、傍若無人に勝手気ままに自らの利益ばかりを求めていく。そういう生き方をしながら、その自らの悪性に気づかずにいる“私”こそが悪人なのです。
むしろ怖いのは、自分の持つ悪さ、愚かさに気づくこと無く、他人のことばかりを見て批判し、「自分はアイツよりまともだ、自分は善い人間だ」と誤解してしまうことではないでしょうか。
念仏の教えは、自分の愚かさを知らされ、気付かされる教えです。
決してただ念仏を口にすれば良いなんてお気楽な教えではありません。
もちろん他力念仏という教えに沿えば、念仏称えるところには、阿弥陀仏の願いも行も届けられているのであって、私の思いや心が問題となること無く、全て阿弥陀仏の力・はたらきによって救いが定まるのかもしれません。けれどそれは阿弥陀仏の側の見方であって、悪人・凡夫である私が、念仏すれば誰でも救われるなんてことは、軽々しく言うべきではないのでしょう。
けれど誰しもが救われる教えでない限り、自身は救われないのだと親鸞聖人は受け取っておられると、私は思います。それは、自分を一番下に置いた考え方です。それほど自分は罪深き愚かな身であるとご自身のことを見ておられるのです。
誰でもが念仏で救われる。そう言えるのは、「悪い事をしても念仏すれば大丈夫」なんて開き直りなんかでは決してありません。
自分の在り様をとことん見つめ抜いて、そういう教えでない限り、悪人の極みである私は救われないという受け取りをされた。これほど徹底した自己内省はあるでしょうか。
自分は間違っていない、常に正しい善人であると思いがちな私という存在。
けれど、自分勝手な思いから、条件さえ整ってしまえば何をしでかすかわからない身でもあります。「人を殺したことがないのは、自分が善人だからではなく、そういう縁が整っていないだけの話だ」とも、親鸞聖人は仰っておられます。
そういう自分の本当の姿を誤魔化すこと無く突きつけられる教え。私はそこに、念仏の教えの真髄の一つがあると感じています。
「悪人正機」という言葉も、悪い行為を行う人こそが救われるのであれば、自分の好き勝手に生きれば良いと誤解されてもおかしくない言葉です。
けれども上に書いた二つの事柄、念仏すれば誰でも救われるとか、悪行や罪を犯すものが救われるということは、私は正しい理解であるとは思いません。
ここには一つ欠けていることがあるからです。
それは「悪人」が誰なのかという問題です。
一般に悪人と言えば、悪い行いをした人、社会における法を破り、罪を犯した人を言います。けれど浄土真宗で言う悪人は、そういう罪を犯したどこかの誰かのことを指してはおりません。
指しているのは「この私」なんです。
私こそが悪人。
罪を犯していないのに、なぜ悪人なのか。
確かに、法は犯してはいないかもしれません。
けれどこの心の中で、人を殺したいと思うほど憎んだり、人を傷つけるような言葉を吐いたり、嘘偽りを述べたり、常に自分が正しいと思い込み、自らを省みること無く、人の気持を考えず、傍若無人に勝手気ままに自らの利益ばかりを求めていく。そういう生き方をしながら、その自らの悪性に気づかずにいる“私”こそが悪人なのです。
むしろ怖いのは、自分の持つ悪さ、愚かさに気づくこと無く、他人のことばかりを見て批判し、「自分はアイツよりまともだ、自分は善い人間だ」と誤解してしまうことではないでしょうか。
念仏の教えは、自分の愚かさを知らされ、気付かされる教えです。
決してただ念仏を口にすれば良いなんてお気楽な教えではありません。
もちろん他力念仏という教えに沿えば、念仏称えるところには、阿弥陀仏の願いも行も届けられているのであって、私の思いや心が問題となること無く、全て阿弥陀仏の力・はたらきによって救いが定まるのかもしれません。けれどそれは阿弥陀仏の側の見方であって、悪人・凡夫である私が、念仏すれば誰でも救われるなんてことは、軽々しく言うべきではないのでしょう。
けれど誰しもが救われる教えでない限り、自身は救われないのだと親鸞聖人は受け取っておられると、私は思います。それは、自分を一番下に置いた考え方です。それほど自分は罪深き愚かな身であるとご自身のことを見ておられるのです。
誰でもが念仏で救われる。そう言えるのは、「悪い事をしても念仏すれば大丈夫」なんて開き直りなんかでは決してありません。
自分の在り様をとことん見つめ抜いて、そういう教えでない限り、悪人の極みである私は救われないという受け取りをされた。これほど徹底した自己内省はあるでしょうか。
自分は間違っていない、常に正しい善人であると思いがちな私という存在。
けれど、自分勝手な思いから、条件さえ整ってしまえば何をしでかすかわからない身でもあります。「人を殺したことがないのは、自分が善人だからではなく、そういう縁が整っていないだけの話だ」とも、親鸞聖人は仰っておられます。
そういう自分の本当の姿を誤魔化すこと無く突きつけられる教え。私はそこに、念仏の教えの真髄の一つがあると感じています。
コメント
- ナム
- 2011/03/15 9:44 PM
悪人正機をプログ検索中です
善悪の判断の違いの人がいる。その 善悪の因果が 未来になる。心口意。悪いことの結果が恐ろしい。BATIとはあるのだろうか?
宿命 宿業 因果と償いと生死
宗教研究会(名前検討中
悪人とは 仏教の戒律を 守れない人と 聞いたことがります。
現代社会で 仏教の戒律を すべて 守れる人が いるのだろうか?修行〜
他力本願 縁に触れる 自力本願〜
善悪の判断の違いの人がいる。その 善悪の因果が 未来になる。心口意。悪いことの結果が恐ろしい。BATIとはあるのだろうか?
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悪人とは 仏教の戒律を 守れない人と 聞いたことがります。
現代社会で 仏教の戒律を すべて 守れる人が いるのだろうか?修行〜
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- 村石太ガール&アニメーター
- 2012/04/21 12:50 PM






>>強姦魔や殺人鬼が念仏しながら罪を犯しても、救われるのか?
の問いに対して貴方のお答えは“救われない”ということで宜しいのですね?
「私こそ悪人」もちろんそうなんですが、質問者が聞きたいのはそこではないかと?