智慧と知識
- 2011年05月18日(水) 文:sakulla
- 仏声人語
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先日タツヤさんが告知し、チスイさんが感想を書いた『お坊さん☆レッドカーペット』。
私も当日行けなかったので、その日の夜に録画の映像を視聴した。
(動画はこちら→http://www.ustream.tv/recorded/14511623)
というわけで、チスイさんとかぶるが、私も感想を書くことにする。
2時間ほどの映像。
法話をした僧侶8人のうち7人と顔見知り…というか、普通に研修会などで会ってる人たちだった。
だが、その人たちの法話をご聴聞する機会は滅多にないため、有り難いご縁となった。
さて、8人の法話を総括された福間先生のお話の中で、【知識】と【智慧】の違いについて触れられていた場面がある。
【知識】とは、「偉くなっていくという上昇傾向にあるもの」
【智慧】とは、「自分が愚かであることを気づかされること」
福間先生は、このような線引きをされた。
確かに、いろんな知識を身に付けると、なんだか自分が賢くなったような気になるものだ。
博学であることが、自分に自信を持たせていく。
知らず知らず、胸を張らせるような強みとなっていくような気がする。
だが、智慧とは明らかな道理を見るということ。
それは自分のとらわれている姿に気づかされるということであり、自分の愚かさを知らされる世界に出遇っていくということでもある。
それは、他人と引き比べて愚かさを計ることではない。
「あの人はスゴイなぁ…自分は本当にバカだ」というのも違うと思う。
「自分のほうが道理が分かってる…あの人はダメだなぁ」というのも違うと思う。
「あぁ、自分は見えていなかった…分かっていなかったんだな」という気づきが伴うご縁に出遇っていく世界。
道理を見ようとも、気づこうともせず、自分よがりの考え方を「一般的」「普通」と決め付け、そこからはみ出たものを「異常」といって、時に容赦なく排除する。
切れ味のいいナイフで他者を切り捨てておきながら、同じように他者に切り捨てられてきた自分の在り方にまでは思いが及ばない。
そんな自分を頼りに生きていくということの愚かさ。
その愚かさに気づかされていくのが、仏さまの智慧のはたらきだ。
そして、自分の気づきを他者に押し付けることでもない。
自身が真実と出遇い、自ら気づかされていくということに意味がある。
「あなたの考え方は間違っている」と相手を否定した先に見えるのは、相手の愚かさではなく、自身の愚かさなのではないだろうか。
法話とは、異なる人生を歩む一人一人に、一人一人の気づきを促すもの。
「あなたは愚かだ」と断定し、否定し、押し付けるものではない。
自らに問いかけ、自らを省みる、その機会を下さるのがご聴聞という時間なんだということを、映像を視聴しながら思ったりした。
さて、今回のイベントで司会をしていたのがタツヤさん。
私は彼の毛根が生きていた頃を知っているのだが…あの頃より仏さまのみ教えと共に歩む今の彼のほうが、ずっと魅力的だと思っている。
本人には絶対に言わないけどね(笑)





