安心して悩める社会とは。

先日、「京都自死・自殺相談センター」がNPO法人格を取得した記念のシンポジウムに行ってきました。
金曜土曜と、夜から明け方にかけて無料電話相談をされています。
sottoと名前が変ったようですね。

日本では、自死・自殺で亡くなるかたが毎年3万人・・・
とてもとても、多くの方が自ら、生きることを止めてしまわれています。

私自身、32年間生きて生きた中で、自死自殺によって亡くなった縁故の人もあります。
未遂をしながらも、生きている友達もいます。
 「死にたい」と思ったことのない私に、いったい何ができるのか・・・共感・傾聴・受容・・・それが大事なのはわかっているけれど、ではどんな言葉をかけていけばいいのか・・・

正しい答えというか、一発で解決するような方法など、ないというのが本当のところかもしれません。
 

そのシンポジウムでは、死にたい、と相談を受けた時には決して否定してはならない、と言われていました。
死にたいという“気持ち”を受け止めてあげることが、大事だと。

これは、とても勇気のいることだと、私には感じられました。
一般的に、死にたいと思うほどの苦悩を抱えた時に、人は医者と宗教(医者か宗教)を頼りにする傾向があります。
お医者様には、治療ができます。
 お坊さんには一体何ができるのでしょう。

死にたい、と相談を受けたら、おそらく私は「もしこの人が死んでしまったら、どうしよう・・・私のせいで、この人を死なせてしまったらどうしよう・・・」と思います。
 それは、とても、怖い。

私が精神保健福祉士という資格を取得したにも関わらず、それに対応する仕事ができないのも、その恐怖から逃れられないからなのです。

ある意味では傲慢、なのかもしれません。
自分が他人のいのちを左右するほどの影響力があると思っているから、そんな風に怖がるのかもしれません。
自分のせいだと思いたくないだけ、という怯懦なのでしょう。

一方で、死ぬ縁に遇えば死に、生きる縁に遇えば生きていくのが私たちのあり方、とも思います。
人はいつか必ず死ぬ。
それがどういう死に方であっても、救われていく世界が確かにある。
その縁に触れた人も、すべて。

仏教が説いているのは、生死を超えた道だということができます。
生きることや死ぬことに固執しない「在り方」です。
死んでしまいたい、死んだら楽になるのではないか。。。と思うことは、すなわち固執だというでしょう。
 
そのことは、私が僧侶である以上、どんな状況でも伝えていかなければならない内容です。
 「私はそう聞いています。だから一緒に、聞いていきませんか?」と、言うことしか、私にはできない…です。たぶん。

そうして、自分が悩んでいることをさらけ出せる場所がいっこでも見つかれば、それが「安心して悩める場所」ということであり、それが少しづつでも増えていけば、「安心して悩める社会」ができるのかも、しれません。
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