君と僕とアミダ様の法話◆悵枩検
- 2011年07月09日(土) 文:チスイ
- 仏声人語
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僕は凡夫だ。
凡夫はインドの言葉で「プリタグジャナ(prthag-jana)」と言い、「異生」と直訳されるらしい。
人は一人一人皆、異なる境涯を生きる者と僕は味わっている。
「おまえが悲しみにある時、彼女はよろこびにある」と僕が敬愛する大槻ケンヂ師は「Guru」という歌の中で語っている所があり、そこが大好きだったのだが、「異生」という言葉に照らし合わせてみると、僕たちはたとえ自分にとって大切な人とも完全に分かりあえることはできないのではないかと感じる。
凡夫はインドの言葉で「プリタグジャナ(prthag-jana)」と言い、「異生」と直訳されるらしい。
人は一人一人皆、異なる境涯を生きる者と僕は味わっている。
「おまえが悲しみにある時、彼女はよろこびにある」と僕が敬愛する大槻ケンヂ師は「Guru」という歌の中で語っている所があり、そこが大好きだったのだが、「異生」という言葉に照らし合わせてみると、僕たちはたとえ自分にとって大切な人とも完全に分かりあえることはできないのではないかと感じる。
阿弥陀仏とは、「あなたの悲しみは私の悲しみ」「あなたの喜びは私の喜び」と私のこと我が事と見て下さるみほとけさまだ。
対して自分はどうだろうか?「あなたの悲しみは僕の悲しみ」と完全にそのまま受け止め、分かり切ることは残念ながらできない。
なぜなら自分の都合で相手の悲しみを計ってしまうから。そのままに受け止められない。受け止めたと思っても、そこにどうしてもズレがあるのではないか。
人が成功して、名声を得たりしたら、ともに喜べたなら、喜びは2倍になるはず。
しかし、相手が誉められると、何か誉められていない自分と比べて羨ましくて、心の中ではともに喜べていない所があるのではないか。それが「異生」ではないだろうか?
例えばの話、彼女に振られたとして、その人の幸せを心から願うことが出来たら幸せなのだろうけれど、自分をみじめに思い、上手くいって欲しいと思えないというのは、幸せなことではないだろう。
しかし、そう思ってしまう者こそ「異生」つまり「凡夫」ではないだろうか?
相手と同じ想いになりきることができず、ズレを感じ苦しむのだ。
ところで、僕にとって法話の先生でとても素敵な方がいる。
西本願寺には若い僧侶が法話を勉強する伝道院という場所があるのだが、そこでは研修の総仕上げとして各地方のお寺へ実際に法話をしに向かう。
2年前僕の住むお寺にも、その指導の先生と2人の受講生が来られた。
その時その先生は風邪をひかれていて、法話会中もとてもしんどそうだった。しかし、その先生は法話会の後、どしゃぶりの雨の中、受講生二人と僕も連れて食事に連れて行って下さった。大雨の中、一緒にさっきの法話について色々とお話し下さりながら、笑い話をしながら、歩いて下さったその姿が、とても素敵な感じで、今も脳裏に残っている。
大風邪をひかれていて、疲れておられるだろうに、本当に温かい先生だと思えた。受講生もきっと頼もしかっただろうし、正直嬉しかっただろう。法話の講評も大変有難いが、何より先生の姿に「こんな僧侶になりたい」と思ったのではないだろうか。僕は思いましたよ。
阿弥陀仏というみほとけは、常に相手とすれ違う境涯の私に至り届き、そのまま抱いて下さるみほとけさまである。
そして、常に私に問うて下さっているのだ。「あなたはどうですか?」と。
どこまでも相手とすれ違い、ズレて生きていかざるを得ないこの私に、それでも「異なる境涯を生きるお互い」だからこそ、逆に相手の思いに寄り添おうとすることが大切だということを教えて下さっているのかもしれない。
「お前が悲しみにある時 彼女は喜びにある」
でも、それでもそれぞれの想いでキャッチボールができたら良い。
対して自分はどうだろうか?「あなたの悲しみは僕の悲しみ」と完全にそのまま受け止め、分かり切ることは残念ながらできない。
なぜなら自分の都合で相手の悲しみを計ってしまうから。そのままに受け止められない。受け止めたと思っても、そこにどうしてもズレがあるのではないか。
人が成功して、名声を得たりしたら、ともに喜べたなら、喜びは2倍になるはず。
しかし、相手が誉められると、何か誉められていない自分と比べて羨ましくて、心の中ではともに喜べていない所があるのではないか。それが「異生」ではないだろうか?
例えばの話、彼女に振られたとして、その人の幸せを心から願うことが出来たら幸せなのだろうけれど、自分をみじめに思い、上手くいって欲しいと思えないというのは、幸せなことではないだろう。
しかし、そう思ってしまう者こそ「異生」つまり「凡夫」ではないだろうか?
相手と同じ想いになりきることができず、ズレを感じ苦しむのだ。
ところで、僕にとって法話の先生でとても素敵な方がいる。
西本願寺には若い僧侶が法話を勉強する伝道院という場所があるのだが、そこでは研修の総仕上げとして各地方のお寺へ実際に法話をしに向かう。
2年前僕の住むお寺にも、その指導の先生と2人の受講生が来られた。
その時その先生は風邪をひかれていて、法話会中もとてもしんどそうだった。しかし、その先生は法話会の後、どしゃぶりの雨の中、受講生二人と僕も連れて食事に連れて行って下さった。大雨の中、一緒にさっきの法話について色々とお話し下さりながら、笑い話をしながら、歩いて下さったその姿が、とても素敵な感じで、今も脳裏に残っている。
大風邪をひかれていて、疲れておられるだろうに、本当に温かい先生だと思えた。受講生もきっと頼もしかっただろうし、正直嬉しかっただろう。法話の講評も大変有難いが、何より先生の姿に「こんな僧侶になりたい」と思ったのではないだろうか。僕は思いましたよ。
阿弥陀仏というみほとけは、常に相手とすれ違う境涯の私に至り届き、そのまま抱いて下さるみほとけさまである。
そして、常に私に問うて下さっているのだ。「あなたはどうですか?」と。
どこまでも相手とすれ違い、ズレて生きていかざるを得ないこの私に、それでも「異なる境涯を生きるお互い」だからこそ、逆に相手の思いに寄り添おうとすることが大切だということを教えて下さっているのかもしれない。
「お前が悲しみにある時 彼女は喜びにある」
でも、それでもそれぞれの想いでキャッチボールができたら良い。
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