念仏者として

東日本大震災から4ヶ月が経過した。

早かったのか、長かったのか。
それを語れるのは、震災前と変わらぬ暮らしができている私ではなく、4ヶ月前の日常に戻りたいと切に願う被災地の方々だけだと思っている。


さて、この4ヶ月の間、震災に対して自分がどのような立場で関わっていくことが望ましいのか、いろいろ考える機会があった。

例えば、「一国民」としてなのか、「一僧侶」としてなのか、「親」「主婦」「女性」としてなのか。
もちろん、私の立場など大事の前の小事に過ぎないことは承知の上だ。
だが、立場によって心構えや支援の幅も異なってくるということは事実だろう。

そうやって、いろいろ考える中で、自分の中にはなかった立場での見方を話す僧侶がいた。
それは「念仏者」としてという視点だった。

以下は、その僧侶が話したことをまとめたものである。



この度の東日本大震災に対して、念仏者はどのような行動をとればいいのだろうか。
念仏者の根本には、【智慧】と【慈悲】をもって、物事を見て、行動するということがある。

【智慧】の目で見るとはどういうことか。
今、私たちの目に映るのは、震災や原発事故によって被災した方々の苦しみや悲しみだ。
しかし、その苦しみと悲しみとは別に、年間3万人の自殺者がいて、それに伴う苦しみや悲しみも常に存在している。
そうした現実に対して、私たちは何かを自粛したりしたことがあっただろうか?
毎日目にする死亡事故や殺人事件に対して、寄り添おうと努めたことがあっただろうか?
多くの人々が直面した震災に心を傾けることは当然のことではあるが、その時だけ自粛するというのは、やはりおかしいことのように思える。

常にある苦しみや悲しみに素通りしていた自分の姿に気づいていくこと。
苦しみや悲しみの大小を勝手に判断していた自分に気づいていくこと。
それは智慧の光に照らし出されることによって、明らかになっていく自分の有り様。

その有り様に気づいたうえで、【慈悲】の心をもって相手の思いを大切にしながら行動を起こしていく。
一方向しか見えない自らの目ではなく、智慧の目を通して物事を見ることによって、慈悲の心が生じてくる。
その心をもって行動しながら、自分は偏っていないかと己に問いかけながら顧みる、それが念仏者として、今あるべき姿である。



私は「日本国民」であり、「僧侶」であり、「親」であり、「主婦」であり、「女性」であり、何より「念仏者」である。
その上で、どのような心をもって行動していくか。
そのヒントが、ここにあるのだと思っている。

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