いいひと?
- 2011年08月15日(月) 文:kenyou
- 仏声人語
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毎日暑いですねえ。お盆の時期ですが、皆さんはお盆休みでしょうか。それともサービス業で、忙しい時期でしょうか。お坊さんは、お盆で忙しいお坊さんもおられるようですが、ウチのお寺はそれほどでもありません。それでもお墓参りなどがあったりもしますので、お休みというわけにはいきませんけれど。
さて、最近ネットを見ていてこれはひどい話だな、という出来事がありました。
さて、最近ネットを見ていてこれはひどい話だな、という出来事がありました。
某地方のテレビ局が、ミスで仮に作ったテロップを流してしまったのですが、そこに書かれてあったのが被災地を小馬鹿にしたような内容のもので、ネット上で大きな問題として取り上げられていました。
私もそのニュースを見て、いくら仮に作った冗談のものだったとしても、人の気持ちを考えない酷い行いであると思いましたし、「被災地の一刻も早い復興を!」などとテレビで言いながら、その裏では被災地のことをなんとも思わないようなことをしているテレビ局の有様に憤りを感じました。本当に情けないことです。
けれども、ふと思いました。これは私も同じではないだろうか、と。
最近、連れ合いの友達に会う機会があったのですが、皆さん口を揃えるかのように「優しそうなダンナさんやねー」と言ってくれました。それに対して連れ合いは、「いやあ、外面がいいだけよ」と謙遜なのか本音なのかわからない返答をしていました。
別に自分のことを良く言うつもりではないのですが、私は初対面やそれほど面識がない方から、「いい人」あるいは「優しそう」という第一印象を受けることが多いように思います。悪い評価ではないので、そういう風に言われて私も悪い気はしないのですが、でも本当に私は優しくていい人のなのか、と考えた時、決してそういえない自分もいるのです。
むしろ私は自分ではイライラすることが多い人間であるように思います。時間的にも精神的にも余裕がある時には、人にも家族にも優しく接することができるのですが、タスクが重なって、時間的にも精神的にも余裕が無くなると、すぐにイライラとしてしまいます。また自分の楽しみにしていたことが出来なくなったりした時や、やりたくないことをしなければならない時など、自分の思いが通らない時にも、これまたイライラとしてしまいます。
もちろん、それを外では出さないようにはします。けれども、家族となると、やはり心を許せる存在であることに甘えてしまい、そのイライラがそれが表情や態度に出てきてしまいますし、その心の内は、とても人様に見せられるようなものではない、グチャグチャのドロドロです。連れ合いは、そのへんの私の姿もしっかり見ているし、そのイライラの被害者になることもあるわけですから、「優しい」とか「いい人」という評価には懐疑的なのでしょう。
親鸞聖人はご自身の有様を、「内は愚にして外は賢なり」、外面では賢そうに、聖者ぶるがその実は愚かな浅ましい心を持っていると、大変厳しく見つめておられます。さらに、「外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮(こけ)を懐いて、貪瞋(とんじん)・邪偽・奸詐百端(かんさひゃくたん)にして悪性侵(や)めがたし、事、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。」ともおっしゃられます。私の心の中は、自分の都合でコロコロと変わり、怒りや貪りの心、偽りの心や人を欺こうとする心が絶えず起こり、蛇蠍のような恐ろしい心を持っている。にもかかわらず、外面は賢く善人であろうとする、それが私の姿であるとおっしゃいます。本当に、私自身の姿がこうであったなと、つくづく思い知らされる言葉です。
震災後の大変な時、マスコミの在り方や政治の無力さなど、見ていて腹立たしいこともたくさんあります。
けれども、自分もまた、他人の事を言えない浅ましい心を持った、決して「いい人」などとは言えない身なのです。
ひょっとすると、こんなことを書いていることすらも、「外に賢善精進の相」を表すことになっているのかもしれません。いやはや、本当に救われようのないことです。
私もそのニュースを見て、いくら仮に作った冗談のものだったとしても、人の気持ちを考えない酷い行いであると思いましたし、「被災地の一刻も早い復興を!」などとテレビで言いながら、その裏では被災地のことをなんとも思わないようなことをしているテレビ局の有様に憤りを感じました。本当に情けないことです。
けれども、ふと思いました。これは私も同じではないだろうか、と。
最近、連れ合いの友達に会う機会があったのですが、皆さん口を揃えるかのように「優しそうなダンナさんやねー」と言ってくれました。それに対して連れ合いは、「いやあ、外面がいいだけよ」と謙遜なのか本音なのかわからない返答をしていました。
別に自分のことを良く言うつもりではないのですが、私は初対面やそれほど面識がない方から、「いい人」あるいは「優しそう」という第一印象を受けることが多いように思います。悪い評価ではないので、そういう風に言われて私も悪い気はしないのですが、でも本当に私は優しくていい人のなのか、と考えた時、決してそういえない自分もいるのです。
むしろ私は自分ではイライラすることが多い人間であるように思います。時間的にも精神的にも余裕がある時には、人にも家族にも優しく接することができるのですが、タスクが重なって、時間的にも精神的にも余裕が無くなると、すぐにイライラとしてしまいます。また自分の楽しみにしていたことが出来なくなったりした時や、やりたくないことをしなければならない時など、自分の思いが通らない時にも、これまたイライラとしてしまいます。
もちろん、それを外では出さないようにはします。けれども、家族となると、やはり心を許せる存在であることに甘えてしまい、そのイライラがそれが表情や態度に出てきてしまいますし、その心の内は、とても人様に見せられるようなものではない、グチャグチャのドロドロです。連れ合いは、そのへんの私の姿もしっかり見ているし、そのイライラの被害者になることもあるわけですから、「優しい」とか「いい人」という評価には懐疑的なのでしょう。
親鸞聖人はご自身の有様を、「内は愚にして外は賢なり」、外面では賢そうに、聖者ぶるがその実は愚かな浅ましい心を持っていると、大変厳しく見つめておられます。さらに、「外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮(こけ)を懐いて、貪瞋(とんじん)・邪偽・奸詐百端(かんさひゃくたん)にして悪性侵(や)めがたし、事、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。」ともおっしゃられます。私の心の中は、自分の都合でコロコロと変わり、怒りや貪りの心、偽りの心や人を欺こうとする心が絶えず起こり、蛇蠍のような恐ろしい心を持っている。にもかかわらず、外面は賢く善人であろうとする、それが私の姿であるとおっしゃいます。本当に、私自身の姿がこうであったなと、つくづく思い知らされる言葉です。
震災後の大変な時、マスコミの在り方や政治の無力さなど、見ていて腹立たしいこともたくさんあります。
けれども、自分もまた、他人の事を言えない浅ましい心を持った、決して「いい人」などとは言えない身なのです。
ひょっとすると、こんなことを書いていることすらも、「外に賢善精進の相」を表すことになっているのかもしれません。いやはや、本当に救われようのないことです。
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