形あるもの・・・

「形あるもの、いつか壊れる」

小さい頃から、何となく聞き続け、言い続けてきた言葉。
それは真理の言葉ではあるけれど、使い方としては壊れたことを自他に対して言い訳するときに用いることが多かったように思う。



この世は諸行無常。
形あるものが、いつまでも同じ形を保ち続けることは叶わない。
物も人も、認識される全てのものは、生滅と変化を繰り返し、止まることはない。

そして、そのすべては縁によって、仮にその形を取って成立しているだけ。
例えば机なんかも、いろいろな部位が集って机になっているのであり、バラバラにしたら机ではなく、木材の集りでしかなくなるし。
机に座れば、それは椅子になる。
つまり、縁によって、条件によって、仮に机として成立しているのであって、そこに永遠不変の机というものは存在しない。

恐ろしく簡単な説明だが、これが「空」ということである。
そして、「ない」ものを「ある」と思い、「あり続ける」と執着するところに、苦しみが生じるという。

だが、これが机ではなく、人命に関わることだとしたら・・・、冷静でいられるわけがない。

諸行無常という真理を悟られたお釈迦さまは、王子の立場を捨て出家した。

後に祖国が隣国に攻め入れられようとするとき、お釈迦さまは二国をつなぐ道に立ち、隣国の王を諭し引き返えさせるということを、二度繰り返された。
しかし、三度目には道を開け、軍を祖国に通し、そして祖国は滅びの道を辿ることになる。
これが「仏の顔も三度まで」のもとにあるお話だ。 (※四度目に道を開けたという説もあり)

それは、我執に目を覆われ、正しい道を見失った隣国の王を戒め諌めた説話である。
しかし、永遠不変のものなどないのだと、形あるものは壊れるのだと、真理を悟ったお釈迦さまもまた、滅びる祖国を思いつつ、その現実を受け入れることに苦しんだのではないだろうか。
受け入れるために、二度道に立つ必要があったのではないだろうか・・・そんな個人的な感情論が湧いてくる。

それでも、お釈迦さまはその受け入れ難い現実を、受け入れながら生きていかれたのだろう。
そうした葛藤が、苦しみがあるからこそ、諸行無常という悟りはこの上なく重いものと、私は感じ入るのである。


話は飛ぶが、先日、お寺の会議に出席するため、車で家を出た。

だが、途中で渋滞に巻き込まれてしまう。
原因は、目的のお寺のすぐ近くにある商店街で発生した火災によるものだった。
商店街という密集した場所の火災ということで、20台近くの消防車に加え、ハイパーレスキュー隊も出動するほどの惨事となった。

結果は17店舗が延焼。
けが人はなかったというが、通りすがりの人間が「それは幸いだった」と喜ぶには、あまりに上っ面な感情の発露だろうと、被災された方々の失ったものの大きさを思い、心を痛める。

受け入れ難い現実は、誰の身の上に起こりうることだ。
子供の成長も、季節の移り変わりも、無常で言い表せることではあるけれど、人は日常を破壊されるときのほうが、無常を感じ入りやすい。
そして、3月11日の出来事を経て、いま多くの人が諸行無常の理を感じ入る時機にあるのだと思う。
しかしそれは、あくまで真理の上の話であり、喪失感を癒すものではない。

戻らないと分かっていても、それでも元の形に戻して欲しいと、切に願う人がいる。
壊れたものを思いながら、涙に暮れる人がいる。

その「人」が、自分自身にならない限り、無常の中に生きていることを実感することは難しい。
受け入れることは、もっともっと難しい。

ならばせめて、他人事だと通り過ぎるのではなく、一つ一つに立ち止まり、思いを巡らせたい。
無常の前に、無情となってはいけない・・・渋滞の中、そう自らに戒めた。

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