いのちの往き先
- 2011年09月18日(日) 文:sakulla
- 仏声人語
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「ペットは浄土へ往生するのでしょうか?」
そのような問いを受けたことが何度かある。
言葉を選んで答えてきたが、正直なところ、その問いに対して明解な答えができないのも事実。
なぜなら、お浄土に往生するということは、仏法に出遇うことが大前提にあるためだ。
仏法に出会い、仏法を聞く。
それは、人に生まれて初めて叶うこと。
「畜生道に生まれたペットが、浄土に往生することはない」
「死んだら六道の輪廻にまた入り、いつか人道に生まれ、仏さまとのご縁をいただいて往生するだろう」
そうはっきりと話す同じ宗門の僧侶もいる。
だが同時に、
「残された私たちはペットの死を縁として、自らのいのちの行く末を見つめなければならない」
「そのことを愛するペットが私たちに、いのちをかけて教えてくださっているのである」
と、ペットの供養ばかりを重視して、自分の生死の問題を蚊帳の外に置いてはいないかという警鐘も鳴らされている。
また浄土真宗本願寺派のご門主は、『世のなか 安穏なれ』という著書の中で、
「動物が死後ただちに極楽浄土へ行けるかどうか、仏ではない私たち人間にはわかりませんが、生きとし生けるものを照らし、仏にしたいと願われている阿弥陀様ですから、人間とは別な手立てをご用意されていることでしょう」 (90頁)
と、ペット供養に関する質疑にお答えになられていた。
本音を言えば、飼い犬の死が、ここまで大きな打撃となるとは思っていなかった。
ひたすら泣いた。祖父母が亡くなったときより泣いた。思い出すだけで今でも泣ける。
それはきっと、スキンシップの差なのだろう。
だから思うのだ。
その「いのち」の往く先が、お浄土であって欲しいと。
愛する存在の死は、確かに私自身のいのちの行く末を考える縁にもなった。
けれど、それは同時に、ペット以外の、野良猫や家畜や、自然界のあらゆる動物たちが、「畜生道に生まれたのだ」「浄土には往生できないのだ」と言われて、違和感もなく納得してしまえる自分のエゴにも気づく縁となった。
すべては阿弥陀さまにおまかせすること・・・本当は私がとやかく言うことではない。
なので、今の私に響いた詩があったので紹介することにする。
それは、禅宗の公案「南泉斬猫」の中にある、子猫が斬り捨てられる場面を受けて作られた詩。 (作者不詳)
六道輪廻の理をもって 猫に生まれしこの我は
覚りの道を求むとて あだな刃に斬られしが
浮世の身体離れては 浄き恵みに与りて
光り輝く御仏の 遠き国土に至りけり
蓮の華のその上の 仏のひざに丸まりて
十万億土を照らし出す 御法の日ざし心地よく
ねえほとけさま このぼくは ずっとこうしてねていいの?
ずっとこうして めをつぶり くびをかいててもらいたい
ねこにうまれてよかったよ きもちよくってあたたかい
そうあって欲しいと、私のエゴが叫んでいる。





