秋
- 2011年10月08日(土) 文:kensho
- 仏声人語
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さて、神宮球場はというと、大学野球の聖地として知られている古い球場です。
とても古い球場なので施設や建物の構造が古いまま使われています。
他の球場と異なる点。
それは、試合が終了して選手が引き上げる通路が外野と内野の間にある通路を通らないと球場外に出ることが出来ないということです。
普通の球場であれば、試合中選手が控えているベンチの後ろから出口につながっていますので、ベンチの後ろに選手は退きます。
しかし、神宮球場はその経路がないので、試合が終了すると荷物を持って球場のグランド横を通り、外野と内野の間にある通路から退出するということになります。
その経路を通るということは、スタンド席にいるファンや観客の目の前を通って選手は退くことになるのです。
ここで問題が起こります。
勝ったチームの選手に対するファンの声援は温かく、「明日も頑張れよ〜!」とか「〇〇(選手)よくやったぞ〜!」と励ましや賞賛の声に包まれます。
もう一方、勝負事なので勝ちがあれば負けがあります。
負けたチームのファンは選手に監督、コーチに対してこれまた手厳しいのです。特にシーズンの結果が分かり始めているこの時期や連敗中になると、まあ怒号や罵声が飛びます。
励ましの声も聞きますが、弱いチームになるとそんな声はかき消されるほど凄いヤジが飛び交います。今までの選手の長年の苦労や痕跡までもかき消すかのようなドきつい声もあります。
かと思いきや次の試合に勝つとケロっと姿を変えて温かい声援を送ります。
私たちは、こうも簡単に人の感情や経験も考慮せずコロコロと変わりやすい存在だなあといつも痛感します。
勝負事は勝つか負けるかの究極の2択しかありません。
結果だけを大切にして、そこに至るまでの選手一人一人の苦労の経過に一喜一憂しドラマを感じ、物語を楽しむのが本来のスポーツの醍醐味のはず。
親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と、仰られています。
縁に触れれば何をしでかすか分からない私という存在。
そんな私の姿に仏という働きの鏡に映し出された時、阿弥陀様に報いる生活を送らせて頂きたいものです。
阿弥陀如来の本願力によって救われるとはどういうことか。
往生浄土の道を歩ませて頂いているということは、どういうことか。
私にとって野球も仏縁の一つ。生活の中にある仏縁。
仏とは、阿弥陀如来の働きです。
日常の中にはいつでも仏縁があります。






