不殺生の難しさ
- 2011年10月16日(日) 文:kenyou
- 仏声人語
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先日、富山・宇奈月の善巧寺さんで行われました「お寺座LIVE」に行ってまいりました。
七尾さんと原田さんのパフォーマンスが素晴らしく、楽しく、そして感動を味わえたライブでした。
また読経隊としても参加させていただいたのですが、広いお堂の中で、気持ちよくお勤めさせていただいたことも、大きな喜びでした。お寺座は本当に素晴らしいイベントだと改めて感じました。
今回のお話は、そのお寺座に向かう道中のこと。
七尾さんと原田さんのパフォーマンスが素晴らしく、楽しく、そして感動を味わえたライブでした。
また読経隊としても参加させていただいたのですが、広いお堂の中で、気持ちよくお勤めさせていただいたことも、大きな喜びでした。お寺座は本当に素晴らしいイベントだと改めて感じました。
今回のお話は、そのお寺座に向かう道中のこと。
私の住む石川県と富山県は隣同士なのですが、山中温泉は福井県に近く、宇奈月も、新潟県寄りの町。高速道路を使って、片道2時間ほどかかります。
普段、それほど頻繁に高速道路を使うことはないのですが、ドライブ途中でフロントガラスが汚れていることに気づきます。虫が当たっているのです。夏の夜など、高速道路でなくても、ライトに寄せられて虫が当たってくることがありますが、車を運転するという行いの中でも、実はこれまで、意識すらせずたくさんの虫を殺してきていることに少し愕然としてしまいました。
とは言え、普段の生活の中で全く殺生していないか、と言われれば、それも徹底できてはいません。蚊が寄ってくれば反射的にパチンとやってしまいますし、ゴキブリがでれば殺虫剤を探してしまいます。梅の木にアブラムシがつけば、なんとかそれを始末したいと思います。また実際に行動に起こさないまでも、時には人を殺したいほど憎く思うという経験もあります。仏教で言う「行い」は、実際に行動に移すことはもちろん、言葉にすること、そして心に思うことすらも「行い」とされます。ですから、殺したいと思うこともまた、殺生という「行い」なのです。
釈尊は、雨季になると一所に留まって、説法や瞑想されたと伝えられています。それは、雨季には虫などが活発になるために、歩くことでそれを殺してしまわないようにするためだそうです。しかし、私自身、なかなかそこまで徹底することはできませんし、車を運転するなどの行為の中で、意図せずに殺生をしてしまうということもあります。
なるだけ生き物を殺さない、という不殺生を意識するということは仏教徒にとって大切な事です。けれどそれをどうしても徹底しきれない自分がいる。そういう自分の不完全さ、至らなさを常に見つめ、それを恥じていく心を持つということも、私は大切な事なことだと思います。きっとそういう心から、仏さまに手を合わせていくことに繋がっていくのではないでしょうか。
普段、それほど頻繁に高速道路を使うことはないのですが、ドライブ途中でフロントガラスが汚れていることに気づきます。虫が当たっているのです。夏の夜など、高速道路でなくても、ライトに寄せられて虫が当たってくることがありますが、車を運転するという行いの中でも、実はこれまで、意識すらせずたくさんの虫を殺してきていることに少し愕然としてしまいました。
とは言え、普段の生活の中で全く殺生していないか、と言われれば、それも徹底できてはいません。蚊が寄ってくれば反射的にパチンとやってしまいますし、ゴキブリがでれば殺虫剤を探してしまいます。梅の木にアブラムシがつけば、なんとかそれを始末したいと思います。また実際に行動に起こさないまでも、時には人を殺したいほど憎く思うという経験もあります。仏教で言う「行い」は、実際に行動に移すことはもちろん、言葉にすること、そして心に思うことすらも「行い」とされます。ですから、殺したいと思うこともまた、殺生という「行い」なのです。
釈尊は、雨季になると一所に留まって、説法や瞑想されたと伝えられています。それは、雨季には虫などが活発になるために、歩くことでそれを殺してしまわないようにするためだそうです。しかし、私自身、なかなかそこまで徹底することはできませんし、車を運転するなどの行為の中で、意図せずに殺生をしてしまうということもあります。
なるだけ生き物を殺さない、という不殺生を意識するということは仏教徒にとって大切な事です。けれどそれをどうしても徹底しきれない自分がいる。そういう自分の不完全さ、至らなさを常に見つめ、それを恥じていく心を持つということも、私は大切な事なことだと思います。きっとそういう心から、仏さまに手を合わせていくことに繋がっていくのではないでしょうか。
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