相対という絶対


恋に落ちると眩暈を起こすという、一風変わった友人がいる。

彼女とは、特に会う約束をしていたわけじゃなかった。
なのに、見かけて声をかけた数分後には、彼女は私の車の助手席に座っていた。

彼女の世界は、相変わらず変わっていて、私は彼女との会話を楽しむために、自分の価値観で考えることをやめる。
そうして彼女の話す、彼女の世界の出来事を堪能する。

 
「男はみんな狼だ」と、小さい頃から父親と祖父に言われて育った彼女には、【男性の友達】という概念が成立しえない。
男女の友情などというものは存在しないと言っていて、私が男友達とゴハンを食べに行くと聞いては驚き、有り得ないと言っては目を見開く。

私の友達は、彼女の世界では狼以外の何者でもない。

彼女の話に相槌は打つけれど、共感することは滅多にない。
私にとって彼女とは、私の考えが及ばない価値観が、この世には雑多に存在するということを示す具現者だ。

人は得てして、自分の価値観が絶対であるかのように振る舞い、それに反する者を非難し排除するものだ。
絶対ではないと分かっていたとしても、その考え方が多数を占めていると思い込み、その威をかって声高に相手を追い詰めることもある。

その理論は自分が中心に据えられて、初めて正当性が発動する程度の、狭い世界でのみ通用するものでしかないにも関わらずだ。

例えば、【美しい花】を見て、【美しい】と思う。

それは当然のことで、特に疑問に思うことではないかもしれないけれど。

実際には、【美しい花】があるのではなくて。
ただ【花】があって。
その【花】を、私が【美しい】と思っただけ。

私が感じたことが、私の世界を作っている。

【美しくないもの】【汚いもの】【醜いもの】という相対的なものがあるからこそ、感じることのできる【美しさ】。
それらと引き比べて感じる感情に、絶対的な価値観などというものはないということ。

助手席で、同じ視界を見ている彼女が、私と同じものを見ているとは限らない。
そして、彼女がこの視界から、何を見出しているのかも想像できない。

そんな共感しがたい感性の持ち主が語る、ある出来事の顛末から導き出された共感しがたい結論は、多様にある価値観の存在を私に教えてくれて。
私は、自分の価値観が絶対的ではないということを、その都度気づかされている。

それにしても。
理解しようとしても、理解できないと諦めてしまうような相手に対して。
それでも友情を感じているという事実が、なんとなく嬉しく思えた。

分かり合えなくても、相手を大切に思う気持ちがあれば、繋がり合えるということだ。
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