「愛欲の広海、名利の大山」
- 2012年06月02日(土) 文:るる
- 仏声人語
- comments(1)
先日、こんな質問をされました。
「過去に戻れるとしたら、いつがいいと思う?」
他愛ない会話の中で、誰しもやりとりしたことがあるかもしれませんね。
以前だったら、「大学時代!」とか「小学生くらいからやりなおしたいかなぁ」などと答えたかも。
もしくは「結婚前だね」とかも、答えとしてはありうるかも?笑。
でも、どこかでこんな話を聞いたことがあって、すぐに答えられませんでした。
被災された方の言葉です。
「3月10日に戻りたいけど、翌日にあの大震災が起こるのなら、もう戻りたくない」と。
うまく答えられなかった私を見て、
「じゃあ、今の経験と価値観と知識を持ったままだとしたらいつに戻りたい?」と聞かれました。
それもとても難しい質問です。
大震災以降、私の世界は大きく変わりました。
「過去に戻れるとしたら、いつがいいと思う?」
他愛ない会話の中で、誰しもやりとりしたことがあるかもしれませんね。
以前だったら、「大学時代!」とか「小学生くらいからやりなおしたいかなぁ」などと答えたかも。
もしくは「結婚前だね」とかも、答えとしてはありうるかも?笑。
でも、どこかでこんな話を聞いたことがあって、すぐに答えられませんでした。
被災された方の言葉です。
「3月10日に戻りたいけど、翌日にあの大震災が起こるのなら、もう戻りたくない」と。
うまく答えられなかった私を見て、
「じゃあ、今の経験と価値観と知識を持ったままだとしたらいつに戻りたい?」と聞かれました。
それもとても難しい質問です。
大震災以降、私の世界は大きく変わりました。
さまざまな立場のひとに会って、話を聞いて、そのそれぞれの抱えている事情や苦しみに触れ、無力感に苛まれることもありました。
判断を交えず、ただ、聞く。ということの何と難しいことか。
それができずに抱え込んでしまい、私自身が普通の生活を送っていることに罪悪感を覚えたりもしました。
また一方で、支援関係の活動が広がれば広がるほど、注目を浴びたり評価していただいたり、ということも増えましたが、それにおだてられて天狗になっている自分がいるのも事実。
浅ましいことだと思いつつ、あの人は立派なひとだ、人格者だ、と言われたいと思っている私が、確かにここにいます。
悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを。恥づべし、傷むべし。(「教行信証」)
<現代語訳>
「悲しいことですが、愚かな親鸞は、愛情欲望の広海に溺れ沈み、名誉や利得の大きな山道に迷い惑い、信心を得て正定聚の仲間に入ることを喜ばず、真実の証(さとり)に近づくことを楽しまない。まことに恥ずかしく、傷ましいことです。」
親鸞聖人がこのように述べられた言葉に、救われています。
ご自身をさらけ出すように書かれたこの言葉が、染みて染みて仕方がない。
「聖人もそうだったのでしょうか。私もいま、そうなのです」と打ち明けたなら、やさしい眼差しで「それがひとの姿であるよ、だからこそ阿弥陀如来の目当てはお前なのだ」とおっしゃってくださるに違いありません。
私には、あなたに遇えて本当によかった、と思える人や、共に歩んで行こうとする人、私を支えて励ましてくれる人が、3月11日以降にたくさんたくさん増えました。
同時に、人間の嫌なところを見てしまったり、自分さえよければいいという本音を武装してかかる人、自分のことは棚上げする人、さまざまな主義主張にも出会いました。
いつからか、そのすべてが私の姿である、と思うようになりました。
いずれにせよ私のものさしでしかないけれど、
そこにいる「ひと」の悩み苦しむ姿も、
楽しい話に笑い転げている姿も、
自分をよく見せようと偉そぶっている姿も、
人にやさしくするのも、
人を非難して自己正当化するのも、
震災を糧として一歩を踏み出す人も、
堂々巡りで答えが出ないと嘆く人も、
全部、昨日の私、明日の私。
さて、こういう考え方を持って、冒頭の質問を考えてみます。
どこの時代に戻りましょうか。
答えは、ひとつしかない、とやっぱり思います。
「今、ここ」というよりほかない、と。
過去も未来もなく、たった今、ここで、私は私と出遇っているんですね。
二度とない「今、ここ」を大事にしたいなぁと思っています。
判断を交えず、ただ、聞く。ということの何と難しいことか。
それができずに抱え込んでしまい、私自身が普通の生活を送っていることに罪悪感を覚えたりもしました。
また一方で、支援関係の活動が広がれば広がるほど、注目を浴びたり評価していただいたり、ということも増えましたが、それにおだてられて天狗になっている自分がいるのも事実。
浅ましいことだと思いつつ、あの人は立派なひとだ、人格者だ、と言われたいと思っている私が、確かにここにいます。
悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを。恥づべし、傷むべし。(「教行信証」)
<現代語訳>
「悲しいことですが、愚かな親鸞は、愛情欲望の広海に溺れ沈み、名誉や利得の大きな山道に迷い惑い、信心を得て正定聚の仲間に入ることを喜ばず、真実の証(さとり)に近づくことを楽しまない。まことに恥ずかしく、傷ましいことです。」
親鸞聖人がこのように述べられた言葉に、救われています。
ご自身をさらけ出すように書かれたこの言葉が、染みて染みて仕方がない。
「聖人もそうだったのでしょうか。私もいま、そうなのです」と打ち明けたなら、やさしい眼差しで「それがひとの姿であるよ、だからこそ阿弥陀如来の目当てはお前なのだ」とおっしゃってくださるに違いありません。
私には、あなたに遇えて本当によかった、と思える人や、共に歩んで行こうとする人、私を支えて励ましてくれる人が、3月11日以降にたくさんたくさん増えました。
同時に、人間の嫌なところを見てしまったり、自分さえよければいいという本音を武装してかかる人、自分のことは棚上げする人、さまざまな主義主張にも出会いました。
いつからか、そのすべてが私の姿である、と思うようになりました。
いずれにせよ私のものさしでしかないけれど、
そこにいる「ひと」の悩み苦しむ姿も、
楽しい話に笑い転げている姿も、
自分をよく見せようと偉そぶっている姿も、
人にやさしくするのも、
人を非難して自己正当化するのも、
震災を糧として一歩を踏み出す人も、
堂々巡りで答えが出ないと嘆く人も、
全部、昨日の私、明日の私。
さて、こういう考え方を持って、冒頭の質問を考えてみます。
どこの時代に戻りましょうか。
答えは、ひとつしかない、とやっぱり思います。
「今、ここ」というよりほかない、と。
過去も未来もなく、たった今、ここで、私は私と出遇っているんですね。
二度とない「今、ここ」を大事にしたいなぁと思っています。
コメント
- 佐々木
- 2012/06/02 6:28 AM






ただ、親鸞聖人の言葉に救われておられるところは有り難いです。
名利の大山…は、ボランティア受ける側よりも、ボランティアする方についつい起こりやすいと思います。
私たちは、普段の生活が毎日毎日、全く聖人のお言葉通りで、しかも聖人のお言葉すらも消えては思い起こし、消えては思い起こし、の繰り返しですね。(>_<)
だから人間には仏法が必要なのだ、と思います。
ご投稿ありがとうございました。(^^)