合唱に合掌
- 2012年07月06日(金) 文:kensho
- 仏声人語
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再び「がっしょう」をすることになった。
坊さんなので合掌はいつもしているが、今回はコーラスの合唱である。
東京生活から広島に戻ってきて早二ヶ月とすこし。
広島にあるコールスガンディという仏教讃歌混声合唱団に入団した。
コーラス??
私、あまり人に言っていないが高校時代グリークラブに入っていた。
崇徳高校グリークラブという、合唱界では有名のクラブ。
崇徳高校は男子校なので合唱となると必然と男声合唱になる(当たり前だが)。
グリークラブとはいわゆる男声合唱のこと。
ということで15年ぶりに合唱をすることになった。
私、合唱をしていたことを隠していたつもりは無かったのだが、人にはあまり言わなかった。
なぜかというと正直しんどかったから。
高校時代は、毎日毎日練習で土日となると憂鬱で休みなんてありゃしない。
特に全国大会の前になると朝から晩まで練習。
そして不幸なことに自宅まで遠かった。。。かなり。
通学時間は1時間半はかかり、夜は便がなく乗り換えになるとかるく2時間、正直しんどかった。
まさに音楽とは「音」を「楽しむ」と書くが、私の高校生活は「音が苦(おんがく)」と、シャレにもならない造語の生活だった。
なぜ再び合唱をすることになったのか。
今、振り返ってみて高校生活は合唱一色の生活だったが、本当にお育てを頂いた。
お育ていただいた感謝の歓喜の思いがあり、合唱を苦しみの原因にしていた私の心の慚愧な思いにかられ、そのお育てに恩返しをするつもりで、もう一度一生懸命合唱をしてみようかと思うようになったのである。
「いま」思うとき、私の歩んだ過去の事実は変わらないが、過去の意味は多いに変わった。
正直もう歌わないと誓ったなかで、さも簡単に私の誓いは崩壊。
仏教的に言うと、そんなくだらない僕の誓いほど当てにならないものはなく、もうすでに願われていた存在であったと気付かされた今。
合唱というのは、歌がうまい人が集まれば良いコーラスになるのかというとそういう訳ではなく、声を揃えるところに難しさがあり奥ゆかしさがある。
要は全体の声を聞き、合わせないことには綺麗なハーモニーは生まれない。
我が我がと自己を確立することが大切と信じて生きている現代人にも、まずは相手の声をよく聞くということ、そのことは十分にメッセージ性があるように思う。
これからはつながりの中で相手の声をよく聞き、たまには不協和音も楽しむ。
生かされて生きていることをコーラスを通して多くの人に感じてもらいたい、と大それたことを言うつもりは無いが、まず、一生懸命に仏教讃歌を歌いたい。
そのことが、聞いている人たちに仏教讃歌から仏さまのお心を届けることが出来ると信じて。
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