君と僕とアミダ様の法話10「自分のモノサシと仏様のマナザシ」
- 2012年07月09日(月) 文:チスイ
- 仏声人語
- comments(0)
フェイスブックが好きで時間があれば眺めている事が多い。
先月15日には「真宗合同布教大会」という、フェイスブックから生まれた宗派を超えた新たな法話会に法話をさせて頂いた。
僕自身あの場に立ち大変緊張して、正直課題の多いお取次ぎだったのだが、たくさんのお念仏喜ばれる方の念仏の声と仏法に遇うよろこびを肌で感じ、思いきってエントリーして良かったと思った。後で。(その時は本当にいっぱいいっぱいでした)。いろいろお育てをいただきました。南無阿弥陀仏。
フェイスブックでは、色々な世の中の動きや、人の考えや行動、言葉に出逢う。その時の自分の状況に応じてグサッと突き刺さる言葉、響く言葉もある。こういう言葉に出会った。
「自分のものさしで問うのではなく 自分のものさしを問う」
先月15日には「真宗合同布教大会」という、フェイスブックから生まれた宗派を超えた新たな法話会に法話をさせて頂いた。
僕自身あの場に立ち大変緊張して、正直課題の多いお取次ぎだったのだが、たくさんのお念仏喜ばれる方の念仏の声と仏法に遇うよろこびを肌で感じ、思いきってエントリーして良かったと思った。後で。(その時は本当にいっぱいいっぱいでした)。いろいろお育てをいただきました。南無阿弥陀仏。
フェイスブックでは、色々な世の中の動きや、人の考えや行動、言葉に出逢う。その時の自分の状況に応じてグサッと突き刺さる言葉、響く言葉もある。こういう言葉に出会った。
「自分のものさしで問うのではなく 自分のものさしを問う」
僕たちは日ごろ自分の見方や考え方を判断の基準としている。自分のモノサシで測っているのだ。良い天気・悪い天気、好きな人・嫌いな人などなど。
たとえば、今は梅雨の時期だが、僕は僧侶として、雨の日というのは実に困った「悪い」天気なのである。なぜなら、うちの法話会などにお参りの方が足元が悪いと大変だから。
少しでも多くの方に法話に出あってもらいたい。滑ったりせずに安全にお参りしてもらいたい、という思いがあるからだ。また、こちらがお参りするのに、大雨だと着物が濡れて困ると言うのもある(笑)
しかし2歳の娘にとって、雨の日は「良い」天気なのである。なぜなら雨の日にだけ、娘はお気に入りの長靴が履けるから。そしてやっぱりお気に入りの傘をさして、外にお散歩に出かけることができるから。ピチピチ チャプチャプ ランランラン♪と。
だから、娘の場合晴れていると「あめあめふれふれ母さんが〜蛇の目でお迎えうれしいな〜♪」と歌って雨請いをするのである!
同じ雨という日でも、人が変われば見方が変わる。それは人それぞれに自分のモノサシが違うからだろう。
また、この時期雨が降ると、農家の方は田んぼや畑仕事ができないから、お寺にお聴聞に参るという所もあるそうだ。そうなると、お参りするのに雨は悪い天気ではなくなる。僕のモノサシはまた崩される。
また、このモノサシはまた我が子をも測る。もうすぐ6ヵ月の息子はとても大人しくて良い子。2歳の娘は同じ頃毎晩何時間も泣きまくっていて、抱っこばかりしていた。聖飢魔兇痢慙洪遊舛隆曄戮鯲すと赤ちゃんは泣きやむと言うアドバイスに従って、毎晩聞かせまくっていた。そのせいか現在ちょっとユニークな子?になりつつある。
息子はその点、晩はすぐ寝るし夜泣きもあまりない。
息子は良い子、娘は悪い子とまでは言わないが、手のかかる子、と僕は思っていた。そんな中連れ合いのお母さんが言った言葉にハッとさせられた。「○○君は親が育てるのに、都合の良い子だね!」
子ども自体に良い子、悪い子は本来ない。その子の特徴、個性はあるだろう。知らず知らずのうち、レッテルを張っていたのだ。その子を育てる親の都合というモノサシでいつの間にか測っていたのだ。
「自分のモノサシで問うのではなく 自分のモノサシを問う」
僕は日ごろどんなモノサシで相手を見ているのか。物を、自分自身を、いのちを見ているのか?
損得を始めとする自分の都合で見ているのだろう。しかもそれを自覚することなしに。
阿弥陀様の見方にはそのような区別がない。自分も他人も、善も悪も、賢いも愚かも。自分のとらわれを超えておられるのだ。そのような仏様の「モノサシ」、否、「マナザシ」の中あると、僕たちは自分が「自分のモノサシ」にとらわれていることに気づかされる。気付いた所でモノサシが無くなるわけでも、離れるわけでもない。
しかし、僕たちが南無阿弥陀仏とお念仏申すことは、モノサシに囚われたまんま、自と他、善と悪、賢いと愚かなどの区別が全くない世界に、今もうすでに出遇っているということ。
たとえば、今は梅雨の時期だが、僕は僧侶として、雨の日というのは実に困った「悪い」天気なのである。なぜなら、うちの法話会などにお参りの方が足元が悪いと大変だから。
少しでも多くの方に法話に出あってもらいたい。滑ったりせずに安全にお参りしてもらいたい、という思いがあるからだ。また、こちらがお参りするのに、大雨だと着物が濡れて困ると言うのもある(笑)
しかし2歳の娘にとって、雨の日は「良い」天気なのである。なぜなら雨の日にだけ、娘はお気に入りの長靴が履けるから。そしてやっぱりお気に入りの傘をさして、外にお散歩に出かけることができるから。ピチピチ チャプチャプ ランランラン♪と。
だから、娘の場合晴れていると「あめあめふれふれ母さんが〜蛇の目でお迎えうれしいな〜♪」と歌って雨請いをするのである!
同じ雨という日でも、人が変われば見方が変わる。それは人それぞれに自分のモノサシが違うからだろう。
また、この時期雨が降ると、農家の方は田んぼや畑仕事ができないから、お寺にお聴聞に参るという所もあるそうだ。そうなると、お参りするのに雨は悪い天気ではなくなる。僕のモノサシはまた崩される。
また、このモノサシはまた我が子をも測る。もうすぐ6ヵ月の息子はとても大人しくて良い子。2歳の娘は同じ頃毎晩何時間も泣きまくっていて、抱っこばかりしていた。聖飢魔兇痢慙洪遊舛隆曄戮鯲すと赤ちゃんは泣きやむと言うアドバイスに従って、毎晩聞かせまくっていた。そのせいか現在ちょっとユニークな子?になりつつある。
息子はその点、晩はすぐ寝るし夜泣きもあまりない。
息子は良い子、娘は悪い子とまでは言わないが、手のかかる子、と僕は思っていた。そんな中連れ合いのお母さんが言った言葉にハッとさせられた。「○○君は親が育てるのに、都合の良い子だね!」
子ども自体に良い子、悪い子は本来ない。その子の特徴、個性はあるだろう。知らず知らずのうち、レッテルを張っていたのだ。その子を育てる親の都合というモノサシでいつの間にか測っていたのだ。
「自分のモノサシで問うのではなく 自分のモノサシを問う」
僕は日ごろどんなモノサシで相手を見ているのか。物を、自分自身を、いのちを見ているのか?
損得を始めとする自分の都合で見ているのだろう。しかもそれを自覚することなしに。
阿弥陀様の見方にはそのような区別がない。自分も他人も、善も悪も、賢いも愚かも。自分のとらわれを超えておられるのだ。そのような仏様の「モノサシ」、否、「マナザシ」の中あると、僕たちは自分が「自分のモノサシ」にとらわれていることに気づかされる。気付いた所でモノサシが無くなるわけでも、離れるわけでもない。
しかし、僕たちが南無阿弥陀仏とお念仏申すことは、モノサシに囚われたまんま、自と他、善と悪、賢いと愚かなどの区別が全くない世界に、今もうすでに出遇っているということ。
コメント





