僧侶の本分。

最近、他宗の方とお話することが増えて、何度目かの自問自答をしています。
「読経には(人を援助する方法として考えるなら)意味がない」
「仏法を説いても人は救えない」
「人が幸せになれるなら、どんな方法でもありだと思う」

いずれも、人の苦しみのど真ん中でそれを対象に活動されている、他宗の方から聞いたお話。

僧侶の本分って、何だろう。

仏法を説くこと?
葬儀や法事をとりおこなうこと?
念仏者を育てること?
ご法儀を広く伝えること?

では、それは、何のためにすることだろう?







 衣を着ていないことや寺で暮らしていないことや、法話や読経をしない自分を僧侶と名乗ってもいいのかどうか、ずっと悩んでいました。
僧侶としてできることは、仏法を説くことでしかないはずなのに、と震災以降にもさらにまた、悩みました。

でも、被災地の現状を見たり、避難している方々の苦しい思いを聞いたりしていると、“僧侶として・・・” なんてことは忘れているわけです。
逆に、「実は私は僧侶で」と言うと、「なるほど、だからこんな活動ができるのねぇ」と納得してくださることが増えて、これはいったいどういうことなんだろう?って思い始めました。


苦しみの原因を煩悩と言ってね…と伝えることや、阿弥陀如来はこういう仏でね…と説くことは、僧侶の仕事や役割ではあるかもしれない。
でも、それが僧侶の目的ではないのですね。

今の私の自分なりの表現。
「今の苦しみを、そのひと自身が認めたり受け入れたり、克服したり、抱えたまま生きていこうと思えたりするまでのプロセスに寄り添い、悲しみを和らげ、それらを抱えたまま今日を生きる人と共にある」ということなんじゃないかなぁ・・・。

もちろん、こういうことは僧侶じゃなくてもできるし、震災以降、こういう方々がたくさんたくさん傷つきながらボランティアをされている。
福祉の世界も同じようなことだと思う。

でも、そのプロセスをどう考えればよいかの法則を、お釈迦様や祖師たちは教えてくれている。
仏教は普遍の真理だから、人の感情や理屈に左右されない。
いつでも、どこでも、どんな境遇の人にでも、働きかけてくれる教え。

私はそれを、少しだけ知っているから、また、救われた経験があるから、伝える。

けど、上から物を言うな、と拒否されることも、もちろんある・・・。
それは言い方が悪かったんだと思う・・・。

まだまだ、僧侶の本分を語るには、精進が足りませぬなぁ・・・。


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