君と僕とアミダ様の法話11「アサガオと感謝」
- 2012年08月10日(金) 文:チスイ
- 仏声人語
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江戸時代の俳人、加賀の千代女さんは仏教的な俳句を多く読まれた。
代表作は夏の句「朝顔に釣瓶とられてもらい水」だ。
この句の意味は「朝、井戸水を汲もうとすると、井戸の釣瓶縄に朝顔のツルが巻きついている。そこで朝顔を切ってしまうのは可哀そうと、そのままにして近所から水をもらった」というもので、千代女さんの朝顔に対する「慈しみ」を感じさせる俳句として親しまれている。
しかし、先日ある住職さんから、この俳句の新たな見解、味わいを聞かせていただいた。
「想像して見てください。あなた、本当に近所に水を貰いに行きますか?」
「うーん?」と考えていると住職さんはこうおっしゃった。
「近所に一度水を貰いに行ったら次の日も行かないといけませんよ?夏中朝顔は咲き続けます。ずっと近所にもらい続けることになりますよ。」
代表作は夏の句「朝顔に釣瓶とられてもらい水」だ。
この句の意味は「朝、井戸水を汲もうとすると、井戸の釣瓶縄に朝顔のツルが巻きついている。そこで朝顔を切ってしまうのは可哀そうと、そのままにして近所から水をもらった」というもので、千代女さんの朝顔に対する「慈しみ」を感じさせる俳句として親しまれている。
しかし、先日ある住職さんから、この俳句の新たな見解、味わいを聞かせていただいた。
「想像して見てください。あなた、本当に近所に水を貰いに行きますか?」
「うーん?」と考えていると住職さんはこうおっしゃった。
「近所に一度水を貰いに行ったら次の日も行かないといけませんよ?夏中朝顔は咲き続けます。ずっと近所にもらい続けることになりますよ。」
確かにそうだ。近所の人の理解を得るために説明する必要もある。その夏だけではなく、次の夏もその次の夏も、近所に水を貰い続ける。しかしどうだろう!?隣の井戸の釣瓶にも朝顔のツルが巻いていたとしたら!!
いつかあきらめてしまい、僕はツルを引きちぎって、井戸の水を汲むかもしれない。そもそも最初からそれが当然と思っている自分でしかない。
ご住職はこの俳句はただ「感謝」の心があらわされているのではないかとおっしゃる。
朝顔に釣瓶をとられた不便さをご縁として、井戸の水が安易に手に入る物ではなかった。自分だけの水ではなかった。
「それは、井戸が掘られた時のご苦労、今まで井戸を管理してこられたご苦労、井戸の上流の地域の清らかさなど、測り知ることのできないほど多くのお蔭によって、井戸水を生活用水として使うことが出来る事に気づかされるからです。」
それこそ、「朝顔に釣瓶とられて」この水は「もらい水」つまり賜り物の水であったと、加賀の千代女さんは、そのひと夏を「感謝」の思いで、朝顔と共に過ごされたことだと、ご住職は味わわれ、私に教えて下さった。
仏教では、地球全体、宇宙全体は全て僕と関わりがあると説きます。だから、僕と関係ないいのちは何一つない。意味のないいのちは何もなく、繋がり合い、関わり合っています。
でも僕は、恵まれているものを当たり前と思い、感謝の心をしばしば忘れてしまいます。水も電気も使い放題にしてきた自分を振り返り、自らの生活を見直したいと思います。
いつかあきらめてしまい、僕はツルを引きちぎって、井戸の水を汲むかもしれない。そもそも最初からそれが当然と思っている自分でしかない。
ご住職はこの俳句はただ「感謝」の心があらわされているのではないかとおっしゃる。
朝顔に釣瓶をとられた不便さをご縁として、井戸の水が安易に手に入る物ではなかった。自分だけの水ではなかった。
「それは、井戸が掘られた時のご苦労、今まで井戸を管理してこられたご苦労、井戸の上流の地域の清らかさなど、測り知ることのできないほど多くのお蔭によって、井戸水を生活用水として使うことが出来る事に気づかされるからです。」
それこそ、「朝顔に釣瓶とられて」この水は「もらい水」つまり賜り物の水であったと、加賀の千代女さんは、そのひと夏を「感謝」の思いで、朝顔と共に過ごされたことだと、ご住職は味わわれ、私に教えて下さった。
仏教では、地球全体、宇宙全体は全て僕と関わりがあると説きます。だから、僕と関係ないいのちは何一つない。意味のないいのちは何もなく、繋がり合い、関わり合っています。
でも僕は、恵まれているものを当たり前と思い、感謝の心をしばしば忘れてしまいます。水も電気も使い放題にしてきた自分を振り返り、自らの生活を見直したいと思います。
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