二つのまなざし

先日、妻とパンの話をしていると、妻がちょっと違和感のある言葉を発しました。私が作りたてのパンのことを「焼きたてのパン」と言うと、妻は「焼けたてのパン」と言うのです。

最初は言い間違えたのかな?と思ったのですが、妻は出来たてのパンは「焼けたて」と間違い無く言っています。そこでそれを指摘すると、私のほうがおかしいのでは?と言い返されます。私はパンを焼くのは人ですから、人の立場に立って、「焼きたて」と言うのが正しいと主張しましたが、妻はパンの立場に立てば「焼ける」が正しいから、「焼けたて」と言うのです。そう言われると確かにそんな気もして、どちらが正しいのかわからなくなってしまったのですが、まあどちらも意味は通じるし、どっちでもいいのかなあ、と思いつつ、妻の発想は面白いなあと思っておりました。


しかしよくよく考えてみますと、二人で違った視点を持てるということは、大切な事なのかもしれません。私たち人間には、目が二つ付いております。ただモノを見るだけであれば、カメラのように光を受け取る認識器官は一つで良いはずです。それがなぜだか二つもある、というのは、遠近感を測り、モノを立体的に認識するためでありましょう。片方の目だけでは、距離感を正しく掴めないのです。


ところがその二つの目で見たものを処理するのは、「私」という一人の人間によって行われます。すると、一つの物事に対して一つの視点・立場から判断する、ということが基本となります。もちろん、それで良いのですが、物事には表があれば裏があったり、一つの側面からでは推し量れない、複雑な構造をしていることもあります。ですから、一つの視点からだけでは正しく物事を判断・理解するということは難しい場面も多々あることでしょう。一人の人間が、自分の立場、というものを離れて別の視点に立つということもできないわけではありませんが、それもなかなか難しいことです。


しかし、自分の近くに、自分とちょっと違う視点に立てる人がいるとどうでしょうか。私の妻のように、私とちょっと違う物の見方を出来る人がいることで、私は自分の独善的なものの考え方に気付かされることがよくあります。人が二つの眼で距離感を正しく判断できるように、一つの物事を、別々の視点から見ることで、物事をより正確に深く理解することに役立てる。そんなことを、妻は教えてくれたような気がしました。


そして仏教には、もう一つ大切な目があります。それは「仏さま」の目です。私は、私の目で、自分自身の姿を見るということはできません。また、自分が大事であるばかりに、自分自身についつい甘くなってしまい、自分の生き方や行いを正しくチェックすることもできません。しかし、そんな私のことを正しく見ぬいてくださるのが「仏」という存在です。私の自分勝手な振る舞いをしっかりと見つめ、それではいけないよと厳しく教えるとともに、そういう愚かな私であっても、決して見捨てないという優しいまなざし。それが、仏さまのまなざしであるのです。


ついつい自分の想いばかりで自分勝手な判断をしがちな私。妻の目も借りながら、仏さまから見つめられた私のいのちであるということを、しっかりといただいていきたいものです。 
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