『ぼけてもいいよ』
- 2012年09月26日(水) 文:キッスィ
- 仏声人語
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数ヶ月前のこと。友人が布教に行くというので、ちょっと離れていたけど思い切って聞きに行くことにした。
友人の法話はとっても分かりやすく、ありがたかった。その法話の中で、いくつか本の紹介をしていたので、その場でメモして後日買い求めた。
その中の1つ『ぼけてもいいよ』。

これは、福岡にある「第2宅老所 よりあい」という老人が暮らしたり通ったりしている施設での様子を新聞に連載→書籍化したものである。
そこの所長さんが面白おかしく、そして考えさせられること交えて施設での日常を書きつづっている。
その中で、特に印象に残っている場面がある。(部分的に抜粋し、要約したもの。原文そのままではありません)
トメさん(宅老所の利用者)の要介護認定更新の訪問調査日にて。
要介護度の修正をするためにいくつか質問をしていく。
「おいくつになられますか?」「忘れることにしております」
「ここはどこですか?」「ここはどこかって?あはははぁ。ここはここに決まっております」
「それはそうとあなたこそどこの生まれですか?」「僕ですか?沖縄の生まれで…」「ほ〜う、そんな遠い所からこんなところによくおいでになりましたね。わたくしはその理由が知りたい」と逆調査し始める始末。
また別の要介護度認定更新の場面でも。
「ここはどこですか?」「まだ若いのにここがどこか分からんとね?」
「太平洋戦争が終わった年はいつですか?」「おれは三人兄弟の末っ子で兄貴は…」生活史が始まり、30分経っても戦争が終わるどころか始まらない。
お年寄りたちは試されているとは思っていない。ぼけている人ほどそうだった。普通の会話をしようとしようとしていた。
僕の質問は一方通行なものだった。言葉は人と人をつなげるために存在するはず。試すために言葉を駆使するのではなく、つながるための会話をしたい。
こんなかんじで思わず笑ってしまうようなエピソードばかりである。でもその笑いの中に、ふと考えさせられたり、介護してあげているという目線の自分に気づかされる。
この宅老所の出来事は、お釈迦さまの説かれた「生老病死」が凝縮されているな、と感じた。
生老病死とは、お釈迦さまが説かれた教え「人生は苦なり」という「苦」を具体的に示したものである。
生・・・この世に生まれる。
老・・・1秒1秒老化していく。
病・・・病気にならない人はいない。
死・・・生まれたら死は避けられない。
利用する方は、生→死の真っ只中を生きている。
老化の究極的な場所、宅老所。
何かしら薬を飲んでいる…病院のお世話になっている。
どの項目もこの宅老所の日常に当てはまる。
ただ、この生老病死を抱えているのは宅老所の方だけに言えることではない。自分を含め、誰にでも言えることなのだ。
そのことを知り、自分のこととして思えた時、生→死の間をどのように生きてきたか、そしてどのように生きていくか、変わってくるはずである。
今までの過去は変わらないが、意味は変わってくるのではないか。そしてこれからの方向性が見えてくるのではないか。
そんなことを感じた1冊であった。
- 森 智崇
- 2012/11/04 12:46 PM
- キッスィ。
- 2012/11/18 9:23 AM






なるほどの味わいですね♪