見えぬものこそ
- 2012年10月21日(日) 文:sakulla
- 仏声人語
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先日、息子の幼稚園の運動会があった。
運動会に限ったことではないが、頑張っている子供の姿に涙を流す親の話は聞いたことはある。
だが、まさか自分が、アサヒのビール以上にスーパードライなこの私が、その当事者になるとは思ってもいなかった。
息子が出場したのは徒競走に綱引き、それから鳴子を振り鳴らしてヨサコイを踊る団体競技。
結果は、走ったら最下位で、争いを好まない性質ゆえに綱を奪われるまま立ち尽くし、フォーメーションを覚えられず女の子に手を引かれ、さ迷いながらヨサコイを踊るという残念なものだった。
きっと、自分の子供でなかったら、ドン臭い子がいるなと思ったことだろう。
でも、そのドン臭さが誰よりも愛しく、かわいらしく見えた。
そして、息子がもっともっとドン臭い子だということを知っているから、何度も何度も練習して、一生懸命頑張ったんだということも想像できた。
何事も目に見える部分だけが全てではない。
同じように頑張っても、その成果が同じだけ出るということはない。
それは子供に限ったことではなく、少しの練習で完成できることもあれば、何度やっても成功しないことだってある。
一人一人が違うのだから、至極当たり前のことだ。
なのに、結果として表面に現れ出たものだけを押し並べて、ついつい優劣を決めてしまう私に、息子は一人一人が持つ目には見えない部分の存在をいつも教えてくれる。
私には息子の頑張りしか察することはできなかったが、他の子供たち一人一人にも、私の知らない物語があって、目には見えない努力があったことだろう。
結果が伴わない努力もある。
大きくなれば、それが意味のないものに見えることもある。
だが、そんな意味を必要としない子供たちの前だけを見据える姿勢に、逆に人間として育てられたような気がしてきた。
そう思って改めて演目を見ると、「大きくなったな」というのとは少し違う感慨が湧いてきて、気づけば涙腺が緩んでいたわけなのだが……、ただ単に年を取っただけという説もなきにしもあらず…。
カメラを構えると、息子しか視界に入ることがない。
でもそれは、カメラを構えた時だけのことではないはずだ。
我が子だけに盲目的になるのではなく、片目だけでも目を開けて周りを見渡す余裕を身に付けたい。
きっと、そのやって見る世界のほうが、優しいものに違いないと思うから。
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