文字を読めずとも

私の地域では、「月忌参り(がっきまいり)」というお参りがあります。例えばどなたかが11月10日の日に亡くなられますと、毎月10日に、その方のお宅へお参りをするというものです。門徒さんは一軒だけではありませんので、毎日必ず何軒か、ご門徒さんのお宅に月忌参りをさせていただいています。月忌参りのない日、つまりどなたも亡くなっていない日というのは、一ヶ月の内、一日もありません。 

ある日、月忌参りにあるお宅に伺いましたところ、そのお家のご主人は、毎月必ずきちんと一緒にお勤めをされる方なのに、その日はおられませんでした。話を聞くと、脳梗塞になり、入院されておられるとのことでした。幸い、翌月にお参りにお伺いしたときにはお家に戻っておられ、身体に麻痺が出たりはせず、普段どおりの生活が送れるということでした。


しかし一点だけ、後遺症が残ったそうです。それは、文字が読めなくなったこと。文字を見ても、真っ黒に塗りつぶされたように見え、何が書いてあるのかさっぱりわからないそうなのです。それに気づいたのは、脳梗塞で病院に行った日のこと、そのご主人は毎朝お仏壇の前で「正信偈」のお勤めをされるそうなのですが、お経の本を開いて愕然としたそうです。いつものお経本の文字が、真っ黒で読むことができなかったそうです。それですぐ病院にいったのですが、退院後も、その症状が後遺症として残ってしまい、リハビリでなんとかひらがなまでは読めるようになってきたけれど、漢字は今でもほとんど読めないそうです。


退院後も、そのご主人は毎朝お仏壇の前で「正信偈」のお勤めをされるそうです。長年続けてこられたことなので、お経本がなくてもソラで「正信偈」を暗誦することができるのですが、やはり上手にお勤めできない日もあるそうで、ご主人はそのことがとても残念だ、と悲しいお顔でお話してくださいました。


そんなお話を聞いていてふと、頭をよぎることがありました。それは「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏です。この六字は、たとえ文字が読めなくなったり、読経できなくなったとしても、誰でもが口に称えることができます。お念仏はそのたもちやすさ、行いやすさから「易行(いぎょう)」と呼ばれますが、いついかなる時にどうなるかわからない私のために阿弥陀仏という仏様が考えぬかれた手立てであります。そのことを、そのご主人にお話させていただきましたら、「ああ、そうでしたね」と、頷いてくださいました。


私たちは、難しいことをしたほうが効果があると考えがちです。念仏というただ「南無阿弥陀仏」と声を出すことよりも、より厳しい坐禅や、難しいお経を読めることのほうが、有意義であると思われる方も多いのではないでしょうか。お念仏も、一度だけ称えるよりも、何度も何度も、できるだけたくさん称えるほうが、なんとなく効果がある、そんなふうに思いがちです。ところが、そうではありません。肉体的に辛いことや、人ができないことができることは、確かに勝れたことではあるでしょう。けれども、簡単に口に称えることができる「南無阿弥陀仏」という六字の中には、阿弥陀仏という仏さまが、いつどうなるともしれないこの私のいのちの在り様を見抜き、誰でもが簡単に行うことができ、そして私が「仏」とならせていただくために必要な要素すべてをしつらえてくださってあるのが、「南無阿弥陀仏」という六字なのです。


念仏で病が治ることも予防できることもありません。けれど、病でどうなるともしれない私のために用意された「南無阿弥陀仏」がある。このことを聞かせていただくとき、改めてお念仏の頼もしさに気づかせていただきました。 
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