お坊さんに聞いてみよう6(メリシャカメンバーのこたえ:ケンユウ)

Q.どうしたら心を無にできるのでしょうか(PN桜文鳥)


心を「無」にする。これはとても難しいことだと思います。心を「無」にするというのは、心に起こる様々な作用を止めることです。それは眼で見たもの、耳で聞く音や言葉、鼻や舌で感じる匂いや味、身体を通して感じた感覚。これらの外からの刺激に対して、「良い/悪い」「好き/嫌い」などの判断を付け加えず、感情を動かさないこと。そんなことが可能であるのかどうかも、私にはわかりません。


仏教は、心を「無」にする教えであるというのは、ひょっとすると誤解であるかもしれないと、私は思います。仏教には「空」という言葉がありますが、これは「無」とイコールではありません。「空」というのは、言い換えれば「諸行無常・諸法無我」の教え。つまり、「すべては常に変化の中にあり、永変不変で自由自在な私の本質などというものはない」ということ。あるいは「様々な関係性の中で仮にたまたま成り立っているもの」ということです。


私たちは「私」という自己の存在をある意味絶対的なものとして認識していますが、そうではありません。細胞も常に生まれ変わり死に変わりをし続けていますし、心に思うことも千変万化していきます。決してひとところに留まることはありません。心を「無」にするというのは、ある意味では心を一つの状態に固定化しまうということです。「諸行無常」の道理の中で、そのような状態を保つことはできることなのでしょうか。仮に一時的に「無」の状態にできたとしても、また次の瞬間にはその状態はなくなってしまう。それが私の心というものであると思います。ですから、心を「無」にするということではなく、むしろ「心」は常に移り変わっているものであるという視点に立つことが、大切なのではないでしょうか。



Q.大切な人が亡くなったのですが、何年たっても忘れられません。忘れなくても良いのですが、「もう一度あいたいな…」という思いがこみ上げてきて悲しくなります。この思いをどういう方向にもっていったら良いですか?(PNさあや)


私も数年前に同級生を亡くしました。あまりに突然の死に、もう会えないという現実にはなかなか向き合えませんでした。またどこかで、ふっと再会できそうなことを、今でも想うことがあります。けれど、私の目や身体を通して、彼の存在を感じるということは、残念ながら、もう二度とできないのですよね。


でも私が出会った浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」と称えるところに、またその彼と会うことができるということを教えてくれました。人と人として会うことは出来ないけれど、私の口から「南無阿弥陀仏」と称えるところに、「仏さま」となった彼のはたらきが、届いている。だから、「南無阿弥陀仏」と称えるところに彼の存在を感じることができるのです。このことを詠んだ、こんな歌があります。


「恋しくば 南無阿弥陀仏を称うべし 我も六字の うちにこそ住め」


その大切な人を想い、悲しくなったときには、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称えてみる。称えてもなにも感じ無いかもしれません。けれど、今まで口にしたことのないこの「南無阿弥陀仏」という言葉が出たとき、目には見えなくても、肌で感じることはなくても、「仏さま」となられたその大切な方のはたらきが至り届いている。私は、そんなように受け取っております。

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