親の姿
- 2013年06月19日(水) 文:kenyou
- 仏声人語
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6月11日に妻が男の子を出産しました。3142gの男の子。私もこの日をもって父親になりました。妊娠がわかったのが去年の10月頃で、それから約8ヶ月、時間とともにお腹の大きくなる妻の姿を見ていながらも、なかなか自分が父親になる、ということは想像出来ませんでしたが、我が子の顔を見て、得も言われぬ喜びとともに、ああ、私はこの子の親なんだという気持ちがようやく起こって来ました。それ以来毎日病院に通い、妻の様子と赤ちゃんの顔を見に行っていますが、もうかわいくてしょうがありません。ほとんど寝ていますが、寝ている時に突然ビクッとなることがあります。それがもうたまらなくかわいいんです。思い出しただけでニヤニヤしてしまいます。もちろん、起きて目を開けた表情もたまりません。どうやら早くも親バカ全開のようです。
さて、そんなうちの子ですが、小さな町の病院での出産でした。他に赤ちゃんはいなかったのですが、たまたま同じ日に、もう一人女の子が生まれていました。今もベビーステーションには二人の赤ちゃんが並んでいます。赤ちゃんはどんな赤ちゃんもかわいらしいもの。もしそこに自分の子がいなければ、どちらの赤ちゃんも同じようにかわいいと感じたことでしょう。ところがそこに我が子がいると、そんなことは思いません。もう視線は我が子の方にしかいかないのです。これは自分のことながら驚きました。これが「親」の気持ちなのかと。
我が子こそ可愛いというような感情は、親の愛情と言えるでしょう。しかし同時に私はちょっと自分自身が怖くなりました。我が子かわいさのあまり、見えなくなってしまうものもあるんじゃないか、と。この子にもし何かあった時、私はこの子と自分のことしか見えなくなって、他の子のことや、その親の気持ちをわかろうとしなくなってしまう、そんな気がしたのです。
それを感じた時、ふと、お盆のエピソードを思い出しました。お釈迦様のお弟子の中に、目連尊者という方がおられました。神通第一と言われるほど優れた方でしたが、ある時なくなった母親が、死後どうなっているのかということを、神通力で見てみますと、なんと餓鬼道と呼ばれる世界に堕ちているではありませんか。餓鬼道とは、物惜しみや人に施すことを嫌う人が落ちる世界です。優しかったはずの母親がそんな世界にいることが、目連尊者は信じられませんでした。そこでお釈迦様に相談しますと、「お前の母親は、お前には大変優しかった。けれどお前のことが可愛いあまりに、他の子どもにお前と同じように物を与えたり優しくせずに、不平等に扱った。そのために餓鬼道に落ちたのだろう」とおっしゃいました。目連尊者は、そうだったのかと嘆き、なんとか母親を助けられないかとお釈迦様に訪ねます。お釈迦様は「雨季の終わり、修行僧の就業期間の終わりに、修行者たちに施しをしなさい。その功徳によって母親を救うことができるであろう」と目連尊者に示されました。それによって、目連は母親を救うことができ、それがお盆という行事の始まりとなった。そんなエピソードです。
このエピソードで、目連尊者の母親の姿が、我が子には優しいが、他の人に対しては物惜しみをする愚かさを持った親として描かれています。しかし目連尊者のお母さんの姿は、決して人ごとではありません。私もひょっとしたら、目連尊者のお母さんと同じような愚かさを抱えているのではないか、そんなことを感じたのです。親には子どもを守り育てるという大切な役割があります。しかしそこに執われ過ぎてしまうと、他の子ども、他の親の気持ちを考えられずに、人を傷つけることに繋がりかねないように思います。自分の子どもがかわいいのは当たり前のことですが、それは他のどの親にとっても、同じでしょう。我が子を大切にする中に、そのことも忘れてはならないのだと感じました。
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