まは、さてあらん
- 2013年06月20日(木) 文:しょーしん
- 仏声人語
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皆様、お元気にお過ごしでしょうか?
しょーしんでございます。
僕は、と言いますと、全くお元気ではありませんでした。
というのも、僕は大阪に念仏道場を新たに建立させていただきしまして、その道場がこの6月にやっと落慶法要(オープニング・セレモニーみたいな感じです)を迎えるということで、忙しく動きまわっておったんです。
しかし、その忙しいさなかにガッツリと風邪をこじらせてしまったんですよね。
「まあ、6月やし、風邪とかはひかんやろ。うふふ」
と思っていたのですが、それが甘かったのです。
合計4回の法要の二回目の直前からこじらせまして、40度の熱が出るわ、声は出なくなるわ、汗は滝のように流れて布団はプールみたいになるわでもう最悪のコンディションでした。
しかし、
「とにかく法要を中止するわけにはいかん!」
とスクリと栄養ドリンク、そしてウィダーinゼリーを飲んでは布団にくるまり、ガクガクと震えておったんですが、まあ、なんとか法要は気合で乗り切った感じでございます。
熱が下がってそこそこ回復してから思い出したのは、親鸞聖人の奥方様である恵信尼(えしんに)様のお手紙。
親鸞聖人が熱で倒れた時のことが書かれていた部分です。
以下、恵信尼様のお手紙の意訳
親鸞さま具合を悪くされて倒れられてから、4日ほどたった夕暮れ時のことです。
どうも親鸞さまが横になったまま何事かつぶやいておられるので耳をすますと
「ああ、そうだったか」
と、声が聞こえて来ました。
気になったもので、親鸞さまにそっと
「どうされました?うなされて、うわ言を申されているのでしょうか?」
とお聞きしますと
「うわ言では無いんだよ。こうして横になって2日目あたりから、ずっとお経を読んでいたんだ。」
「お経、でございますか?」
「そうなんだ。
目をふさげば、お経の文字がまるでそこにあるかのように、一字一字はっきりと見える。」
「それは、どういうことでございましょうか?」
「そう、どういうことなのか
お念仏を申し、南無阿弥陀仏を受けとらせていただくより他に、何を心にかけることも無いはずなのに、と思って過ごしてきたが、これはどういうことかと良く良く考えてみたんだ。
すると思い当たったよ。
今から17〜18年ほど前に、水害にあった村を訪れたことがあった。
その惨状に驚いた私は、三部経を千回よんでその功徳でなんとか皆を救おうとしたんだ。
しかし、お経をよみ続けながら、私はハッと気づいたんだよ。
生きとし生けるものを救おうとはたらいておられる阿弥陀様に、全てをまかせるのでは無かったのか?
阿弥陀様が『私にまかせておくれ、必ず救うから』と願ってくださったのに、今の私は、自分の力で何事かの救いをもたろそうとしている。
これはなんということだろう
と
そう思って、自分のした事を悔いたのだ。」
「... そうでありましたか。」
「その気持が、今こうして寝込んでいる時に、ムクムクと私の中で膨らんできた。
自分の肉体がこうして壊れ、たよりにならなくなった今、たよりない自分の力をたよりにしようとした、あの時の気持ちがよみがえってきたのだろう。
ほんの少しでも、自分の力をあてにする心が残っていたのかもしれないな。
人間の執着の心、自分の力を過信してしまう傲慢というのは、よくよく捨てがたいものだ。
気を付けなければならない、と思い当たった。
そうすると、目の前の経文がスッと消えてしまったんだ。」
「それで、つぶやいておられたのですね。」
「そうなんだ。
自分の奥底にある気持ちに気付いて
『ああ、そうだったなあ。私にもああいうことがあった。』
とつぶやいていたんだ。」
それから、しばらくして親鸞さまは熱も下がり、元気になられました。
というお手紙です。
僕の意訳なので、ちゃんと知りたい人は是非原文を読んでくださいね。
熱にうなされながらも、目の前にお経の言葉がありありと浮かんできて、それによって自分自身の姿勢を見つめたのだという親鸞聖人の姿を、恵信尼様が書きとどめていたんですね。
状況的には、僕も同じように熱を出してぶっ倒れていたんですが、恥ずかしながら僕の場合は、倒れている間にお経の文字は「一文字も出てこなかった」のです。
ああ、親鸞聖人というお方はやっぱり凄い人だなあ…
と思い知らされると同時に、自分の姿勢を見つめなおそうと思わせてもらえるご縁だったのでした。
周りのことが何も頼りにならない状況では、自分しか頼りにならないと思いがちですが、その自分こそが、実はどれほど不確かで頼りにならないものか。
確かなものを頼りにしようとしても、世の中に確かなものというのは無い。
自分も含め世の中の全てが頼りにならなくなる時があります。
確かだと思っていた土台が、全く頼りにならなくなる時がある。
この世ではそれだけが確かなことです。
そんな時、確かに頼れるよりどころは「世の中を超えたもの」でなければなりません。
それが、僕にとっては南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏は世の中を超えたところから、世の中の僕へと届いてきた、阿弥陀仏からの「どうか私にまかせておくれ」というよび声です。
そういえば、お経の言葉がズラズラと瞼の裏に見えることは無かったけれど、南無阿弥陀仏はずっと口から出てくださっておりました。ハスキーボイスの南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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