君と僕とアミダ様の法話「ウロボロスの蛇」

 タイの思想家アジャンチャオという僧侶は、人間をよく蛇で譬えている。


「コブラ

人はイライラする時 コブラが頭の中にいるようだ

コブラは 放っておけば 何もしないで

通り過ぎる

コブラを考えて 近づけば 噛まれる


なるべく コブラを考えなければ 

自然と 平和が戻る」

なるほど。自分の中にいる蛇を掴もうとして、噛まれて傷ついてしまう自分。妙に納得する。
もしかしたら僕たちは、自分の中でのセルフイメージを自ら傷つけて、傷ついたと錯覚することが多いのではないだろうか。自らネガティブなイメージに囚われていくような。もちろんそれだけではないし、相手やきっかけの出来事があってのことだと思うが。
しかし、コブラを考えないようにすればするほど、自分の中のコブラは大きくなっていくようで困る。

また、アジャンチャオには、こういう言葉もある。

「不快なことに動揺するのが蛇にかまれるようなものだとしたら、楽しいものを掴もうとするのは、蛇の尻尾を掴むようなものである。遅かれ早かれ、蛇はあなたに噛みつくだろう」

 「不快なことに動揺するのが蛇にかまれるようなもの」これが怒りの炎(瞋恚)だとしたら、「楽しいものを掴もうとする」これはむさぼりの欲の炎(貪欲)であろう。

「遅かれ早かれ、蛇はあなたに噛みつくだろう」とは、人生は振り子のように、自分の都合に合わないと怒り、都合に合うと貪り。またそれが都合に合わない原因を作っていく。行ったり来たりだ。
しかもそのことに気づかずにあっという間に、時が過ぎ去っていた。これが人生が空しく過ぎるということではないだろうか。

親鸞さまは「こころは蛇蠍のごとくなり」とおっしゃった。私の心は蛇や蠍ですと言い切られた。自分と別の所に蛇がいるのであれば、その蛇を退治したり、近づかなければいいが、自分自身が蛇であれば、どうしようもない。まるでウロボロスだ。無限に苦しみを生み続ける。

しかし、「こころは蛇蠍のごとくなり」と言い切られたのは、「あなたの抱えるその蛇こそ、救いのめあてだ」と自分を決して見捨てないはたらきに出あわれたからに他ならない。

他の人に気付かれたらその嫌らしさに、世界中の全ての人が自分の元を去っていくような、ウロボロスの闇がある。
しかしその闇を、まるごと包み込むような、阿弥陀さまの大きな大きな心に出遇うと、自分の蛇が少しだけ愛しくなるのかもしれない。

僕もそうですが、蛇が嫌いな人には、このコラム、ごめんなさい。
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