愛と憎しみの日々
- 2013年07月17日(水) 文:しょーしん
- 仏声人語
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おはようございます、こんにちは、こんばんは。
しょーしんで御座います。
相変わらずにのんべんたらりと毎日を過ごしておる僕なんですが、もうすぐ人生の中でも割りと大きなイベントがあります。
というのも、実は僕、もうすぐ結婚するんですよね。
少し前に婚約しまして、お互いに両親交えて食事なんかしちゃったりしまして、いよいよ書類揃えて提出しましょうかという段階まで来ています。
最近は
「結婚って… なんなんだろうな…」
などとアンニュイ気分に浸りながら一人スタバでキャラメルマキアートなんぞを嗜む日々でございます。
しかし、最近はじめてその婚約者と大げんかをしたんですね。
念仏道場の落慶法要後、疲れと開放感でヘロヘロになっているときに、些細なことでケンカに発展してしまいました。
ケンカというのは、正義と正義のぶつかり合いで、お互いに
「自分が正しい」
と思っておるから起こる。
普段は「自分が正しい」という思いと食い違う人がいても、さほど近くもない他人なら「まあ、別にいいわ、他人だし」くらいですむんですが、関係が近くなればなるほど、「別にいいわ」で済まされなくなる。
どっちがが緩衝材になればお互いに大きく傷つくことは無いんですが、人間というのは固くなるより柔らかくなる方が難しいのでしょう。固いものと固いものが狭い中でガチャガチャやってりゃ、割れてしまうのが道理というものです。
「そっちが悪い」「こっちが正しい」「ああ言った」「いや言ってない」
しまいには、関係の無い罵詈雑言まで飛び出して、あれよあれよと言う間に引っ込みがつかなくなってしまう。
そんな中で、親鸞聖人の言葉を思い出しました。
無明煩悩しげくして(むみょうぼんのう)
塵数のごとく遍満す(じんじゅ・へんまん)
愛憎違順することは(あいぞういじゅん)
高峯岳山にことならず(こうぶがくざん)
『正像末和讃』
【意訳】
私達人間とは、愚かさと欲望とが際限なくわいてきては、
無数の塵のように身に満ち満ちているものだ。
都合が良いものを愛し、都合の悪いものを憎むその姿は、
まるで切り立った山や谷のように高低が激しく、仏様のような平等の境地とは程遠い。
僕のつたない意訳なので、詳しく知りたい方は先生方の解説でも読んでみてください。
意味はおおよそこのような感じだと思います。
この言葉が頭をよぎって
「ああ、まさにこれは僕のことそのままの言葉やなあ」
と思ったわけです。
都合の良い時には愛し、都合が悪くなると憎む。
まるで僕を見て言われているような気分になりました。
親鸞聖人は、またこうも言います。
凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえず
『一念多念証文』
【意訳】
私達、凡夫というのは、愚かさと欲望とが身に満ち満ちて、あらゆる欲にさいなまれ、それによって怒り、腹をたて、嫉妬し羨む。
そして、一時もそのような心がとどまること無く、この命が終わるその瞬間まで、悩み苦しむものだ
ネガティブなように見えるかもしれませんが、人間の有り様を言い当てる言葉だなあと思います。
そして、親鸞聖人はここに
「われら」
という言葉を使っています。
「我ら」
つまり、自分を含むということです。
「私も無明煩悩満ち満ちた凡夫や」
という親鸞聖人の気持ちがこもっているのかなあ、と聞かせていただきました。
婚約者も自分もまた凡夫です。
愛しいと言えるような縁があれば愛しあい、逆の縁があれば憎しみ合う。
そうやって互いに補いあい傷つけ合いしながら一緒に生きていかないといけない。
腹が立つのが綺麗におさまったわけじゃない
自分が正しいという気持ちがさっぱり無くなったわけじゃない
でも、お互いに仏様から見たら、どっちもどっちのどうしようもない凡夫。
目くそ鼻くそ、どんぐりの背比べ。
そう思えた時、心はまだまだ穏やかでは無かったですが
「なななななな、なかなおりしよっか…」
と言えました。
そして、なんとか仲直り出来ました。
親鸞聖人の
「ワシも一緒、同じ凡夫や」
という言葉が、仏様の目線を教えてくれて、怒り腹立つ自分の醜い姿、彼女の苦しみ悲しみを見せてくれたように思います。
人は目が外側についとりますから、他人は見やすいけれど、自分は見にくい。
仏教というのは、大きな目でもって、自分自身を見せてくれる教えなんだろうなあ、と思わせられたエピソードなのでした。
めでたし めでたし
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