君と僕とアミダ様の法話「宿借」

現在、お盆参り中だが、晩になると妙に読書したくなる。夏休みには本屋で文庫フェアをしているので、ついつい買って夜更かししてしまう。そして次の朝眠すぎて自分の首を絞めることになる。

最近、道尾秀介に嵌っていて、直木賞受賞作『月と蟹』を読んだ。
海辺の町、小学生の慎一と春也はヤドカリを「ヤドカミ」と呼び神様に見立て、願い事をしていく。無邪気な儀式ごっこはいつしか切実な祈りに変わり、母のない少女・鳴海を加えた三人の関係も揺らいでいく。

少年時期の自分を取り巻く環境に対しての無力感。友人関係恋愛関係の「どうやっても上手くいかない」感じ。寄る辺なさが描かれていて、胸に沁みた。

この物語に出てくる「ヤドカリ」は最も重要な役を担う。

 終始シリアスな話なのだが、僕は読んでいてヤドカリが出てくるところはなんとなく顔が綻んでしまった。
ヤドカリは、僕も子どものころに飼っていたことがあるが、とても愛らしい。大きい貝殻に鞍替えする姿は滑稽でもある。

この本を読んで知ったのだが、ヤドカリの赤ちゃんは、殻を持たない。小さなエビのようにスイスイ自由に泳ぎまわるそうだ。
しかし、いつ頃かは分からないが、成長すると殻を見つけ中に入る。これは外敵から身を守るためで、いくらか安全かもしれないけれど、泳ぎまわる自由がなくなる。
「どっちがええんかな?」と作中登場人物は疑問を持つ。

これは「大人になること」に対する思いのようだ。
大人になることは殻を纏うことだろう。純粋に強くなること。子どもの時のどうしようもない周りの環境に打ち勝つ強さを手に入れることだろう。誰しもそうだろうし、そうしないと生きていけないだろう。しかもその殻を僕たちはより大きいものに、大きいものに宿替えしていく。それが幸せだと信じて。
殻とは、自己イメージとか、プライドとか、利益優先の心でもあるのではないだろうか。

しかし、その殻を纏うことによって、失うものがある。純粋さとか、剥き出しの初めての感動とか。自由に何処までもいく勇気とか。殻はそれらを失わせる。もっと言えば自ら背負った密室に、自ら入り込んで良しとしてしまう。

ヤドカリはまさしく大人になった僕だ。

阿弥陀さまの光に出遇うということは、年とともに殻を大きくしている我が身の愚かさ恥ずかしさに気づかされていくことだ。殻を脱ぎ捨てる事ではない。たとえ脱ぎ捨てても生きている限り、またすぐに新たな殻を見つけて潜るだろう。

殻を脱いでも見捨てない光に出遇うということであり、殻に閉じこもっていても「どんな時も私は一緒にいますよ」と、そこに届いている光だ。

どことなしにコミカルで哀しいヤドカリは、少年たちに「ヤドカミ」と神様にされてしまう。自分たちの作りあげた神にどう導びかれていくのか、『月と蟹』おススメです!
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