心の叫び
- 2014年01月26日(日) 文:sakulla
- 仏声人語
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先月のことだが、宗門校の女子校の講堂でお話をするご縁をいただいた。
終了後、校長先生から講評をいただいたのだが、良かった点として挙げられたのは、可愛い可愛い息子の話をしたことだった。
……つまり、主筋に関係のないウケ狙いで差し込んだ話が好評だったというわけだ。
最近の学生さんは、結婚出産について、それがいかに素晴らしいことであるかを直接聞く機会が少ないのだそうだ。
だから結婚の良さ、子育ての良さを聞かせてあげることができて大変良かった、とのことだった。
主筋でなくても印象に残ったものがあっただけでも有難いと思う。
ただ先生の思いからは外れてしまうのだが、私は結婚も子育ても、あえて誰かに奨めたいとは思っていないのである。
結婚出産をして約5年。
人生の7分の1に過ぎないこの5年の間、私は自分がいかに我儘な人間で、自己中な人間であるかを思い知らされてきた。
もちろん、結婚出産を契機にそういう人間になったというわけではない。
それ以前だってそういう人間だったのだろう。
ただ、そのことに気づかなかっただけ。
いや、気づかないでいられただけだ。
家族は鏡だ。
互いの感情が互いの顔に映り合う。
程よい距離感など望めないから、遠慮も容赦もできない時がある。
私の尖った感情が旦那に向けば、私と同じ不機嫌な顔が現れる。
私の不安な気持ちが息子に向けば、私と同じ泣き顔が現れる。
その逆もまた然りで、彼らから向けられる様々な感情が、私の顔に映り込む。
それを身近にいながら許容し合うことで、家族が成り立っている。
鏡が映し出す自分の感情に、自己嫌悪に陥ることは少なくない。
特に子供に対しては、申し訳なくなるときもしばしばだ。
正直に言えば、自分の人間性に気づかないでいられた頃のほうがよっぽど楽だった。
もちろん、気づくことで内省することもでき、変わっていくこともできるのだろうが、未熟な私は相手にも同じことを望んでしまうから始末が悪い。
だから私は、苦い経験だけを踏まえて考えてしまうと、若い女性に向け両手を挙げて推奨する気持ちにはなれないのだ。
もっとも、薦められてその気になったからといって、すぐに事が進むものではないのだろうが、何事もきちんと受け入れた末のものでなければ、今から目を背け、選ばなかった「if」に惑わされることになる。
まぁ、なんだかんだと言って、結局のところ縁が調ったときが頃合いなのだと思うので、相手を急かすような言動だけは慎むように気をつけてはいる。 (※ キッスィは除く)
続けたいと思うくらいには幸せだが、この5年で笑顔だけを映し合うのは難しいということは良くわかった。
ただ、良くわかった末に映し合う笑顔の尊さに気づけたことだけは、悪くはないと思っている。
それにしても……。
「あんたの!ペットボトルを潰すために!結婚したわけじゃ!ないのよー!!」
という私の旦那への盛大な愚痴の叫びを聞いて、果たして結婚は良いものだと生徒さんは思ってくれたんだろうか………?
そして、その上で良いものだと仰った校長先生の思いに、重ねてきた年月の重みの違いを感じるばかりである。
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