絵本『おにたのぼうし』が深い。
- 2014年02月05日(水) 文:チスイ
- 仏声人語
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2月3日は節分でしたが、先日Eテレの番組『おはなしのくに』で「おにたのぼうし」という絵本が演じられていました。
僕は今回たまたま見て初めて知った絵本ですが、作:あまんきみこ、絵:岩崎ちひろで、大変深くて見ているとなんだか涙が止まらなくなってしまいました。
この絵本に描かれているのは、人間の、僕の悲しさだと思います。

娘(4歳)が幼稚園で作った「おにた」ではなく、鬼のぼうし。
僕は今回たまたま見て初めて知った絵本ですが、作:あまんきみこ、絵:岩崎ちひろで、大変深くて見ているとなんだか涙が止まらなくなってしまいました。
この絵本に描かれているのは、人間の、僕の悲しさだと思います。

娘(4歳)が幼稚園で作った「おにた」ではなく、鬼のぼうし。
〇あらすじ
節分の夜のことです。どのうちからもまめをまく音がして、おにの子のおにたは、いくところがありません。つのをかくす古いむぎわらぼうしをかぶって、まちを歩いていきました。ようやく小さな橋をわたったところに、まめのにおいのしない家をみつけました。そこには、おんなのことおかあさんがすんでいました。おかあさんは病気でした。てんじょうのはりの上で、ふたりのようすをみていたおにたは、おんなのこをよろこばせてやりたいと思います。
女の子は病気のお母さんを看病しながら、お母さんを心配させないため、何を食べていないけれど、今日は節分だからよその家からご飯と豆、鰯のご馳走の残りをもらって食べたという嘘をつきます。
しかし、家の中に豆や鰯がないから、おにたが家に入れたように、うちの中には何も食べるものはなかったのです。おにたは外に出て一生懸命ご飯を探し女の子に届けます。
女の子はとっても喜びご飯を食べます。しかし、その後で女の子は自分の願いごとをおにたに打ち明けたのでした。「私も節分にまめまきがしたい」と。「おかあさんの病気を治したいから」豆まきをして「鬼」を払いたいのです。
それを聞いたおにたはうろたえます。おにたの言葉が僕の心に突き刺さりました。
「おににだっていろいろあるのにな。にんげんもいろいろいるみたいに。」
おにたはぼうしを置いて消えてしまいます。しかし、その帽子の中には豆が入っていて、女の子は「あの人はきっとかみさまだったんだわ」とその豆をまくのです。鬼は外、福は内と。
節分、鬼は嫌われ者です。鬼は豆をぶつけられてしまいます。鰯を食べ、柊を飾り、邪気は払われてしまいます。それはそうです。僕は病気にはなりたくありません。事故には遭いたくありません。自分や自分の家族には不幸になって欲しくなくて、幸せになってほしいのです。心から母の健康を願う女の子のように。しかし「鬼」とは実は私にとって不都合なものの代名詞ではないでしょうか。
その僕の願いの中で「おにた」は傷つきます。女の子の為に走り回って食べるものを与え、女の子の願いをかなえることによって自分がそのことで消えてしまっても、豆を届け豆まきをさせるのです。
それでも女の子はそのように自分の幸せを心底願って消えてしまった「おにた」に気づきません。
「おにたのぼうし」のタイトルと、最後消えてしまうおにたが「ぼうし」を残す意味は何なのでしょう。おにたは「自分は神さまじゃないよ。つののある鬼だよ。鬼にもいろいろあるんだよ」と自らの存在をして欲しかったのかもと思ったのは僕の深読みでしょうか。
僕の日常にも「おにた」はいるのでしょう。不都合に見える、病、失敗、思いもよらぬ別れ、、どうしようもなく回避したい出来事があります。しかしその出来事が自分に教えてくれることがあるかもしれません。その出来事が願ってくれていることがあり、その出来事があったからこそ今の自分があるのかもしれません。
節分の夜のことです。どのうちからもまめをまく音がして、おにの子のおにたは、いくところがありません。つのをかくす古いむぎわらぼうしをかぶって、まちを歩いていきました。ようやく小さな橋をわたったところに、まめのにおいのしない家をみつけました。そこには、おんなのことおかあさんがすんでいました。おかあさんは病気でした。てんじょうのはりの上で、ふたりのようすをみていたおにたは、おんなのこをよろこばせてやりたいと思います。
女の子は病気のお母さんを看病しながら、お母さんを心配させないため、何を食べていないけれど、今日は節分だからよその家からご飯と豆、鰯のご馳走の残りをもらって食べたという嘘をつきます。
しかし、家の中に豆や鰯がないから、おにたが家に入れたように、うちの中には何も食べるものはなかったのです。おにたは外に出て一生懸命ご飯を探し女の子に届けます。
女の子はとっても喜びご飯を食べます。しかし、その後で女の子は自分の願いごとをおにたに打ち明けたのでした。「私も節分にまめまきがしたい」と。「おかあさんの病気を治したいから」豆まきをして「鬼」を払いたいのです。
それを聞いたおにたはうろたえます。おにたの言葉が僕の心に突き刺さりました。
「おににだっていろいろあるのにな。にんげんもいろいろいるみたいに。」
おにたはぼうしを置いて消えてしまいます。しかし、その帽子の中には豆が入っていて、女の子は「あの人はきっとかみさまだったんだわ」とその豆をまくのです。鬼は外、福は内と。
節分、鬼は嫌われ者です。鬼は豆をぶつけられてしまいます。鰯を食べ、柊を飾り、邪気は払われてしまいます。それはそうです。僕は病気にはなりたくありません。事故には遭いたくありません。自分や自分の家族には不幸になって欲しくなくて、幸せになってほしいのです。心から母の健康を願う女の子のように。しかし「鬼」とは実は私にとって不都合なものの代名詞ではないでしょうか。
その僕の願いの中で「おにた」は傷つきます。女の子の為に走り回って食べるものを与え、女の子の願いをかなえることによって自分がそのことで消えてしまっても、豆を届け豆まきをさせるのです。
それでも女の子はそのように自分の幸せを心底願って消えてしまった「おにた」に気づきません。
「おにたのぼうし」のタイトルと、最後消えてしまうおにたが「ぼうし」を残す意味は何なのでしょう。おにたは「自分は神さまじゃないよ。つののある鬼だよ。鬼にもいろいろあるんだよ」と自らの存在をして欲しかったのかもと思ったのは僕の深読みでしょうか。
僕の日常にも「おにた」はいるのでしょう。不都合に見える、病、失敗、思いもよらぬ別れ、、どうしようもなく回避したい出来事があります。しかしその出来事が自分に教えてくれることがあるかもしれません。その出来事が願ってくれていることがあり、その出来事があったからこそ今の自分があるのかもしれません。
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